あまり“ねじれ、ねじれ”というなかれ!
08年01月19日
No.681
現在の国会をマスコミは“ねじれ国会、ねじれ国会”と平気で呼ぶ。“ねじれ”とは、「正常でない」あるいは「真っ直ぐでない」ことをいう表現である。本来の姿でないときに使われる。「あの人の根性はねじれている」などというようにあまり良い意味では使われない。盆栽の木などがねじれている場合は「なかなか味がありますなぁー」ということになる。それを「この木はねじれていますねぇー」などといえば、風流を解さない奴ということになる。可愛い女子アナに“ねじれ国会、ねじれ国会”という原稿を読ませるのは、一体どこのどいつなのだ!
安倍内閣の末期、昨年の通常国会の参議院選挙の前、国会は強行採決、強行採決の連続だった。そのときマスコミは“暴走国会”などと呼んだか。強行採決のことは報道したが、決して“暴走国会”などと呼ばなかったはずである。しかし、国民は“暴走国会”と肌で感じ、自公“合体”体制の“暴走”に歯止めかけなければならないと思い、投票したのである。そして現在のような国会の状況を作ったのである。国民が必死になって作り上げた状況が、現在の国会なのである。自公“合体”体制は困っているだろう。だから彼らが“ねじれ国会”と呼びたいのは分かる。しかし、中立公正であるべきマスコミが“ねじれ国会、ねじれ国会”と呼ぶのは、あまりにも無神経である。
憲法は、国会の各院の議員の賛否によって表明される意思を国民の意思と擬制している。議会制度が創設された時代には、世論調査などというものはなかった。また代議制度は、国民の意思そのものに必ずしも拘束されるものではないともいわれている。しかし、いろいろな見解があるとしても、国民の意思と明らかに異なる意思を国民の意思とする“神の力”などは国会には与えられていない。
再可決をめぐり、「参議院の意思が直近の民意である」とか、「憲法59条2項の規定があるのだから再可決には何の問題もない」という意見が多く見られた。私はこのどちら意見にも直ちに賛成することはできない。いちばん大切なことは国会が国民の意思を表示するものでなければならない。国民の意思がどのようなものかを確定するすることは必ずしも容易ではない。しかし、国会には国民の意思と明らかに異なるものを国民の意思とする“神の力”など与えられていないのである。
衆議院と参議院で与野党の議席が違っていることが国民にとって問題ではないのだ。その時々に行われた選挙で国民が投票した結果なのである。国民にとって問題なのは、現在の国民の意思と違った意思が国会により国民の意思とされることなのだ。そうした“ねじれ”が、国民にとっては問題であり、関心事なのである。マスコミなどは、こうした視点から問題を捉え“ねじれ”という言葉を慎重に使いをすべきだと私は思っている。
新テロ対策特別措置法でも国民の意思と自公“合体”政権の意思は明らかに乖離していた。それを国民の意思としたのが、衆議院における再可決である。自公“合体”政権はガソリン税の暫定税率を維持することも再可決で押し通そうとしている。しかも10年間も・・・・。自公“合体”政権は「地球温暖化対策として必要だ」とか「地方の財政や経済に穴が開く」などと詐欺師まがいの言を弄んで、何がなんでもガソリン税の暫定税率を維持しようとしている。国民の意思がガソリン税の暫定税率の維持に反対のことは明らかである。それなのに自らの意思を国民の意思にしようとしている自公“合体”体制の根性は“ねじれ”ているのである。
自公“合体”政権は“神”か“仏”かしらないが、何か神秘的な力が与えられていると錯覚しているようである。自公“合体”政権は、いまや狂信的な存在として国民に対峙している。公明党がその出生の故に“仏”がかるのは不思議ではないが、自民党が“神”がかるのはやはり公明党・創価学会と“合体”したからではないのか。『創価学会党化した自民党』で私が述べたことは、この面からも間違いないようである。
それでは、また。