“逆転”有罪判決について
07年05月12日
No.423
昨日は、低気圧の影響で東日本はかなり荒れたようである。あなたの地域ではどうだったのだろうか。東京は少なくとも天気は良かった。風がどうだったかは、ほとんど家にいて執筆をしていたので分らない。しかし、夜開けていた窓からいやに冷たい空気が入ってきた。思わず窓を閉め、セーターを羽織った。この数日間夏のように暑いところがあったようだが、やはりまだ初夏なのである。
昨日の永田町徒然草の宿題であった、村岡兼造元官房長官に対する逆転有罪判決についてコメントを書くために、『朝日新聞』と『読売新聞』の関連記事をすべて読んだ。久々に判決要旨も読んだ。しかし、いつもいっている通り判決に対してその是非を述べることは、法定に提出された証拠をすべてみない以上結局のところ何ともいえないのである。だが詳細に記事を読んで、いくつかのことを知りかつ考えさせられた。まず昨日判決を下した東京高等裁判所の須田賢裁判長は、私が司法修習生の時の教官である。これには驚いた。当時、新潟地方裁判所に勤務していた判事補であった。新潟県柏崎市出身で東京大学法学部卒の切れ者であった。法理論を非常に大切にする有能な裁判官であった。これは判決にはぜんぜん関係のないことである。昨日の控訴審判決についていうならば、こういうことではないだろうか。
刑事裁判では、検察官は公訴事実(起訴した事実のこと)を合理的な疑いを容れないように立証する責任がある。これが刑事裁判の大原則である。「疑わしきは被告人の利益に」というのは、検察官が合理的な疑いを容れない程度に立証していない場合、仮に被告人に犯罪を犯したという疑いが残ったとしても被告人を有罪とすることはできないという意味なのである。今回の裁判では、一審の裁判でも控訴審の裁判でも、裁判所に提出された証拠は同じようである。もっと正確にいうと控訴審で検察官は新しい証拠を提出していないとのことである。
一審判決を出した東京地方裁判所の構成がちょっと分らない。一審判決を出した裁判所が1人の裁判官なのか、3人で構成された裁判所のかということである。村岡元官房長官は政治資金規正法違反で起訴された。その事件の法定刑ならば普通は1人の裁判官で審理される。社会的に大きく騒がれた事件であるから3人の裁判官で構成される裁判所で審理されたのかもしれない。インターネットなどで調べたが、この点は確認できなかった。しかし、この点は重要でない。1人の裁判官であろうが3人で構成される裁判所であろうが、裁判所は裁判所なのである。高等裁判所の裁判は、原則3人で構成される裁判所が判決を下す。
ある公訴事実について同じ証拠に基づき、ひとつの裁判所は有罪という判決を出し、もうひとつの裁判所は無罪という判決を出したということである。証拠をどのように判断するかは、裁判官に委ねられている。これを自由心証主義という。今回の事件についていえば、橋本派の会計責任者の証言(捜査官に対する供述調書を含む)が信用できるかできないかということである。今回の事件では、一審の東京地方裁判所は信用できないとして無罪の判決を下したのに対して、控訴審の東京高等裁判所は信用できるとして有罪の判決を下したのである。
どちらも裁判所が下した判断である。裁判所の判断とは、すなわち裁判官の判断である。私はどちらの裁判官の判断が正しいかを問題にしているのではない。もしそのことについて私の意見を述べよというのであれば、冒頭に書いたとおり裁判官がみたと同じ証拠をみない限り何ともいえない。ある裁判の判決について、私が私の意見を軽々にいわないのはそうした理由からなのである。しかし、こうはいえないだろうか。ある裁判官は会計責任者の供述を信用できるといい、ある裁判官はその供述を信用できないというのは、ある裁判官が法律的素養(事実認定もその中に含まれる)を欠いている場合でなければ、その供述そのものに問題があるからではないだろうか?
言葉を変えると、その供述には見方をかえればAともBとも判断できる証拠であるということである。そのような証拠では、検察官が公訴事実を合理的疑いを容れない程度に立証したことにならないのではないかという疑問が出てくる。だが、この論法でいくと3審制そのものが成り立たなくなる。刑事裁判の控訴審は、事後審といってよほどの事情がない限り新しい証拠を提出できないことになっているからである。村岡元官房長官は、直ちに上告した。最高裁判所は法律違反や判例違反がなければ内容に立ち入らないで判断する。村岡元官房長官の弁護団がどのような点を法律違反や判例違反と主張するのか、法律家としては興味がある。理屈は理屈として、無辜の人が有罪にされるのは許されない。それが私の刑事裁判に対する信念である。
それでは、また明日。