血で購われた基本的人権
13年05月24日
No.1575
Give me Liberty or Death.
誰もが知っている有名な言葉である。これがどういう状況の中で、いかなる意図をもって発せられた言葉なのか、まず述べよう。
アメリカの独立戦争を間近にひかえた1775年3月23日、ヴァージニア植民地協議会にパトリック・ヘンリー(1736〜1799)は民兵の訓練強化と防備体制の確立案を提出した。これに対してイギリス本国との和解と妥協の道をもとめる保守派に反対された時、独立のためには武力衝突が避けられないことを強調した演説の一節である。
「鉄鎖と奴隷化の代価であがなわれるほど、生命は高価であり、また平和は甘美なものでしょうか。全能の神よ、かかることをやめさせてください。わたしは他の人がいかなる道をとるかは知りません。しかし、わたしに関するかぎり、わたしに自由をあたえてください。そうでなかったら、わたしに死をあたえてください。」(中屋健一訳)
「鉄鎖と奴隷化の代価であがなわれるほど、生命は高価であり、また平和は甘美なものでしょうか」とは、何とも激しいではないか。アメリカ独立運動の闘士なるが故にはじめて平然と口にできる言葉である。 「わたしは他の人がいかなる道をとるかは知りません。しかし、わたしに関するかぎり云々」は、最初から保守派を食ってかかっているではないか。
「自由は鮮血をもって購わなければならない」も、パトリック・ヘンリーの言葉である。リンカーンと並んで、アメリカ合衆国の政治史における演説の名手のひとりに数えられている。
パトリックが予言したとおり1775年4月19日ボストン郊外のレキシントンで、イギリス本国軍と植民地民兵が衝突。ここに、8年間のアメリカ独立戦争(1775〜1783)の火ぶたが切って落とされた。イギリスからの独立戦争はアメリカ社会の市民革命を伴うものであり、アメリカ独立革命戦争とも呼ばれている。
フランス革命とルソー
「自由とは、他人を害しないすべてのことをなしうることにある。したがって、各人の自然的諸権利の行使は、社会の他の構成員にこれらと同一の権利の享受を確保すること以外の限界をもたない。これらの限界は、法律によってでなければ定められない」
1791年にはじめて制定されたフランス憲法第4条である。フランス革命において多くの血が流されたことはつとに知られている。テロ対策・治安の維持を名目に安易に「公共の福祉」を持ち出して、基本的人権を平気で踏みにじっていく自公政権。これを従順に受け容れ異議を唱えないようとしない国民にぜひ噛みしめてもらいたい条文である。
「イギリス人は、自由だと思っているが、それは大きな間違いである。彼らが自由なのは、議員を選挙する間だけで、議員が選ばれるや否や、イギリス人は奴隷となり、無に帰してしまう」
直接民主制を主張するジャン・ジャック・ルソー( 1712〜1778 )が、当時政治先進国といわれていたイギリスの議会制について痛烈に批判した言葉である。「主権は人民にあり、政府は権力を委任された機関に過ぎない」と人民主権論を展開したルソーの『社会契約論』は、フランス革命のバイブルとなり精神的支柱でもあった。
郵政民営化の是非を問うといって、わが国の憲法に制度としてない国民投票的な手法を使って詐取した衆議院の3分の2を超える議席で、滅茶苦茶なことをしている現在の日本の政治の現状をみたらルソーは何というのだろうか。
人権に対する軽薄な意識と認識
高校の歴史の授業でもないのにこのようなことから始めたのは、わが国の基本的人権やその他の憲法の理想は与えられたものであり、自ら勝ち取ったものでないが故に内実が伴わないことを指摘する人が多いからである。それは時として苦労して勝ち取ったものでないのだからいい加減に扱われても仕方がないということにもなる。このような風潮を私は窘(たしな)めたからである。
それぞれの国の政治や経済にはいろいろな発展段階がある。東洋と西洋では大きく違うのはやむを得ない。ヘンリーやルソーが活躍した18世紀半ばから後半、わが国は徳川時代であった。徳川幕府の権力は絶大であったが典型的な封建体制であり、当時のイギリスやフランスのような絶対君主制ではなかった。近代自由主義の発生は、経済と宗教を抜きに語れないものがある。
ヘンリーやルソーが活躍した時代、わが国に近代自由主義の思想や政治行動があったかというと、これを明確に示す証拠はない。しかし、人民の抵抗の歴史はとかく埋もれてしまうものである。歴史は権力者によって都合よく作られていくものだからである。この時代わが国の国民が何を求めいかなる行動をしたか明らかにすることは歴史家の仕事であって、私はその任にたえない。
自由民権運動の盛り上がりと弾圧
開国・徳川幕藩体制の崩壊・明治維新・文明開化によって近代自由主義の哲学や政治思想がわが国に入ってきた。欧米の事情も多くの国民が知るところとなった。1866年(慶応2年)に発刊された福沢諭吉の『西洋事情』は、いま風にいえば、“大”大ベストベラーとなった。これらに影響され、明治10年前後には活発な自由民権運動が起こった。この運動は国会設立を目標とするようになった。この運動の端緒となった明治7年の民撰議院設立の建白書は次のようにうたっている。
「いま政権は皇室にも人民にもなく、薩長の高級役人だけがにぎっている。法令がつぎつぎに出されては、すぐに、改正されるありさまで、政治や刑罰が私情に左右され、賞罰も愛憎によってきめられている。言論の道はふさがれ、その苦しみを訴える方法もない。こうした状態を救う方法は、天下に公議世論をさかんにして、民選議院をたてるほかない」(一部要約)
自由民権運動の盛り上がりに対して絶対君主制をめざす政府は、讒謗律(ざんぼうりつ 1875年〜明治8年)、新聞紙条例(同年)、集会条例(1880年)など言論弾圧の法令で対抗した。その一方で当面の政府批判をかわすために、1881年(明治14年)に10年後の国会開設を約束する「国会開設の勅諭」を出さざるを得なかった。
政府は10年もたてばこの運動も沈静化するだろうと考えたようである。従って国会開設の勅諭が発せられた後も保安条例(1887年ー明治20年)を制定するなどして弾圧する一方で、運動の指導者の入閣で懐柔するなどして沈静しようとした。
しかし、政府に対する国民の反感は高まり、自由民権運動の思想に影響された秋田事件(1881年)、福島事件(1882年)、高田事件(1883年)、群馬事件・加波山事件(いずれも1884年)、秩父事件(1884年)などが起こった。
加波山事件では首謀者7人が死刑になり、その他の者は北海道の流刑地で過酷な刑罰を課せられた。秩父事件では軍隊が出動して鎮圧し、4000人が処罰され首謀者7人には死刑判決が下されたとなった。
国会の開設は、自由と経済の福利を求める国民の熱い思いと運動の中から誕生したのである。1889年(明治22年)2月11日明治憲法(大日本帝国憲法)と衆議院議員選挙法および貴族院令が発布され、翌1890年第1回総選挙が実施され初めての帝国議会が開会された。
きわめて不十分な「臣民の権利」
明治憲法には今日的にいうならば基本的人権に属するものが「臣民の権利」として規定されている(第2章)。それを列挙すると次のとおりである。
- 均しく文武官に任ぜられおよび他の公務に就くことを得(第19条)
- 居住および移転の自由を有す(第22条)
- 法律に依るに非ずして逮捕監禁審問処罰を受くることなし(第23条)
- 裁判官の裁判を受くるの権を奪わるることなし(第24条)
- その許諾なくして住所に侵入せられおよび捜索せらるることなし(第25条)
- 信書の秘密を侵さるることなし(第26条)
- 所有権を侵さるることなし(第27条)
- 信教の自由を有す(第28条)
- 言論著作印行集会および結社の自由を有す(第29条)
- 請願をなすことを得(第30条)
明治憲法が保障した臣民の権利には、残念ながらすべて「法律の範囲内」とか「安寧秩序を妨げずおよび臣民たるの義務に背かざる限りにおいて」などという条件が付けられていた。また「本章(臣民の権利)に掲げたる条規は戦時または国家事変の場合において天皇大権の施行を妨ぐることなし」とされていた。
基本的人権とはいかなる場合においても保障されるから基本的というのである。普段はいいが大事な時はダメだよ、では基本的人権にはならないのである。大事なときこそ国家と国民の利害が激しく衝突するからである。法律の範囲内というところにそもそも根本的問題がある。しかも明治憲法では、立法の大権は天皇にあり、帝国議会はその協賛機関に過ぎなかった(第5条)。
思想を罰した治安維持法と特高警察
昭和憲法にある「思想および良心の自由は、これを侵してはならない」というような規定は明治憲法にはそもそもなかった。信教の自由とは信仰・宗教の自由である。言論・著作の自由はある思想を表現する自由であり、思想の自由そのものではない。だから天皇主権を否定したり、これに批判的な思想は最初から徹底的に弾圧された。その象徴といえるのが1911年(明治44年)の幸徳秋水以下24人の無政府主義者などに死刑判決を下し12人を絞首刑(残る12人については特赦で無期懲役に減刑)に処した大逆事件である。しかしこれはまだ刑法の大逆罪を理由としていた。
大正14年に緊急勅令で制定された治安維持法は、「国体を変革しまたは私有財産制度を否認することを目的として結社を組織し、または情を知りてこれに加入したる者」を処罰する法律だった。昭和16年の改正で「国体を変革することを目的として結社を組織したる者または結社の役員その他の指導者たる任務に従事したる者」の最高刑を死刑とし、予防拘禁制度まで設けられた。
政府は特高警察(特別高等警察の略称)と思想検事を設け、共産党員や社会主義者を徹底的に弾圧した。「国体の変革することを目的とする結社を組織する(その未遂も罰せられる)」などという構成要件では、政府にとって都合の悪い奴は誰でもとっ捕まえることができた。現に最初は共産党員や社会主義者がターゲットにされたが、後には労働組合・農民組合の活動家や自由主義者や文化人・宗教者など体制に批判的な多くの人々が逮捕・拘禁・処罰された。政府の発表によれば、治安維持法違反で送検された者75,681人・起訴された者5,162人であるが、一連の治安法規も含めた逮捕者は数十万人、拷問や虐待により虐殺・獄死した者は数千人と推定されている。
何百万・何千万人の血で購われたわが国の人権
治安維持法はまさに「自由死刑法」であった。極ごく端折ったが、ここでようやく冒頭の Give me Liberty or Death. まで辿りつくことができた。明治憲法にはきわめて不十分な人権の規定しかなかったが、それでもこれを足がかりに自由と平等と福利を求め、わが国の先駆者たちは懸命に努力した。それは文字通り命を懸けた戦いだった。
その戦いの中で、多くの命と血が奪われ流された。昭和に入り軍部独裁が強まっていくころには、抵抗組織は壊滅させられ言論の自由も消滅し、国民は侵略戦争に反対はもちろん疑問や批判を呈することもできなくなり、狂信的な天皇制ファシヅム体制に組み込まれていった。
日中戦争が始まり、アジア諸国への侵略戦争で何千万というアジア人民の命を奪い、何百万もの自国民の命をも犠牲にして、最後はポツダム宣言を受諾して無条件降伏した。ポツダム宣言には「基本的人権の尊重は確立せらるべし」と明確に謳われている。昭和憲法によって国民に保障された基本的人権は、何百万・何千万の人々の命と血によって購われたのである。
憲法改正を主張する者に、自由のために命を奪われた人々への鎮魂の想いが少しでもあるのか。侵略戦争への歴史的な深い反省があるのか。寡聞にして私は知らない。だから私は、憲法の基本的人権は苦労して勝ち取ったものでないからいい加減に扱われても仕方がないなどという風潮には絶対に同調することはできないのである。憲法の「公共の福祉」を安易にもちだして基本的人権を平気で踏み躙る自公政権とは戦わざるを得ないのである。たとえこの命を懸けてでも。
*この小論は、月刊誌『マスコミ市民』平成19年2月号に掲載されたものである。