初めての改憲内閣の登場
13年05月11日
No.1571
2006年(平成18年)9月26日、1954年(昭和29年)生まれの安倍晋三氏が内閣総理大臣となった。戦後生まれ初の、わが国では歴代で最も若い首相の誕生である。ある意味では画期的な政治的出来事である。そのためであろうか、報道各社の緊急の世論調査によれば、安倍内閣の支持率は70%前後であった。むしろ安倍氏の経歴や政治的実力に比して高いといった方がよいであろう。しかし報道を通じて思ったことだが、国民の中に若い人を含めてあまり政治的高揚感があるとは感じられなかった。
日本国憲法が1947年(昭和22年)5月3日に施行されて以来、この憲法の改正を内閣の政治課題と明言した初めての首相が安倍氏である。憲法改正の歌まで作って憲法改正を政治的看板とした中曽根康弘氏でさえ、自らの内閣ではこれを政治課題としないと明言した。わが国のマスコミは、なぜこのような大切なことを、ちゃんと指摘しないのだろうか。国民が政治的高揚感をもって安倍氏を受けとめなかったのは、実はこの点にあるのではないか。
政治的高揚感とは、たとえば田中角栄氏が首相となったときのあの国民的熱狂である。あるいは細川護煕非自民連立内閣が誕生したとき、多くの国民が抱いたあの政治的解放感と熱気である。
田中角栄氏は官僚出身でない政治家が、戦後初めて首相になったと受けとめられた。実は1954年(昭和29年)に首相となった鳩山一郎氏も、1956年(昭和31年)に岸信介氏を2位・3位で破り自民党総裁となり内閣を組織した石橋湛山氏も、官僚出身の政治家ではなかった。鳩山氏の場合は、その名門性と戦前からの政治家であったこと、石橋氏の場合は病気のためわずか2ヶ月で退陣したこと、それに比して田中氏の経歴と際立った庶民性のためであろう、国民は今大閤と受けとめた。
その国民的熱狂の中で、田中首相は日中国交回復を実現した。日中国交回復は、政治的立場を超えた国民の政治的悲願であった。また官僚政治の打破は国民の願いであった。官僚答弁という言葉に象徴されるように、国であれ地方であれ官僚の行政支配に国民はやり場のない不満を感じていた。官僚政治はいつも評判が悪いのである。
細川内閣は、実質的には戦後で初めての非自民政権であった。国民は野党となった自民党を目の当たりにし、狂喜乱舞した。多くの国民は大きな政治的解放感を抱いた。その時、私は野党となった自民党所属の衆議院議員であった。あたかも反革命分子のように見られることがつらかった。その時、初当選した自民党所属の衆議院議員の中に安倍晋三氏も田中眞紀子氏もいた。
政権を失った自民党
いつの時代にも政権には有象無象が群がるものである。選挙という洗礼を受けなければならない民主主義体制にあってもこのことは避けられない。1955年(昭和30年)、自由党と民主党という保守政党の合同によって自民党は結成された。結党以来初めて政権を手放し、野党となった自民党は酷い状況に陥った。混乱状態というより、崩壊状態にあるように見えた。1993年(平成5年)7月の総選挙で自民党公認の当選者(追加公認を含む)は、230名であった。それが翌1994年6月29日村山富市氏が首相に選ばれた時、自民党所属の衆議院議員は201名であった。そのうち、自民党が首班指名候補と決定した村山氏に投票した者は167名であり、34名が脱落した。
自民党から離れて行く者には、それまで、我こそは自民党と、声高に、そして居丈高にふるまうタイプが多かった。自民党という政党の最大のコンセンサスは、政権党でいたい、ありたいということにあると私は思っている。そうするとこのことは少しも不思議なことではないのだろう。細川内閣が決定した小選挙区制の導入により、次の衆議院選挙において非自民連合がある限り自民党候補者は極めて厳しい状況に立たされることは明らかであった。展望も希望も持てないといって過言ではなかった。野党となってしまった自民党には用も義理もないということだ。
しかし、自民党という政党は、それまでの38年間にわたり政権を担い続けてきたのである。有象無象もいっぱいいたが、それなりの政治家がいなければ長期間政権党である訳がない。マスコミや国民が細川内閣を持ち上げれば持ち上げるほど、私には闘志が燃えてきた。それは細川内閣の中枢に田中派─経世会人脈があることであった。世間は騙せても私は騙されないぞ、許さないぞという想いであった。
異常な政治集団の掟
私は1979年(昭和54年)34歳で衆議院議員となった。以来14年経っていた。この間に私が闘わざるを得なかったのが、田中派─これを乗っ取った経世会(竹下派)であった。田中派─経世会というといつも問題にされるのがその金権体質であった。確かに金権腐敗体質は良くないことである。それは国民の政治に対する公正さを失わせ、金の魔力は政治家の質を堕落させる。だが残念ながら古今東西政権には金権腐敗が伴う。長期政権は特にそうだ。角福戦争という言葉があるくらい田中氏と長年にわたって対峙してきた福田赳夫氏の率いる福田派(安倍氏はこの系譜にある)とて程度の差こそあれ、野党などからみれば金権体質のところはあったであろう。金権腐敗に対しては刑法にこれを罰する規定がある。そして田中角栄その人がロッキード事件で刑事被告人となった。
当時の自民党の派閥は、首相たらんとする政治家を長とする政治集団であった。刑事被告人である田中氏が首相となることは常識的に考えて無理なことであったし、田中氏自身もそこまで考えてはいなかった。刑事被告人であり自民党員でもない田中氏が率いる田中派という派閥は、その存在自体が異常であった。しかしこの異常な政治集団が党内最大勢力となり、残念ながら自民党はふり回され続けた。田中支配という言葉も広く使われた。
その存在自体が異常な政治集団には、異常な掟があった。
「(派閥の)親分が、カラスは白いといえば白なんだ。文句があるなら派閥を出てから言え。」
田中派の中堅幹部であり、後に経世会の会長も務めた金丸信氏が言ったと伝えられている。要は派閥の長に対する絶対忠誠を求めたのである。田中派─経世会は、いつも鉄の結束を売りものにしていた。
私が田中派─経世会と闘わざるを得なかったのは、この点であった。少なくとも自由と民主を標榜する政党において、批判の自由を認めないという体質は許されないというのが私の考えであった。
細川内閣の中枢には、この田中派─経世会にどっぷりつかっていた政治家が多くいたのである。
本性・本質を見よ!
細川内閣は政治改革を第一のスローガンに掲げ、衆議院の選挙制度を中選挙区制から小選挙区制に変えることを具体的なテーマとした。国民も政治改革を唱える細川首相を熱烈に支持した。しかしどんなに厚化粧しても本質というものは変わらないものである。私が予感したとおり、細川氏は田中人脈の一員であったことに起因して墓穴を掘ることになる。即ち佐川急便グループからの一億円借入問題である。
この問題は私が探し出して追及したものではない。ある月刊誌が登記簿謄本等からこの事実を報道し、細川氏自身も借入そのものは認め、すでに返済済みであると答え、国会もマスコミもおさまっていた。しかし私はこのことを徹底的に追及することにした。細川氏自身が一億円を返済したというのは嘘であると私は思ったからである。それは田中派─経世会と激しく闘ってきた者が感ずる直感だった。
佐川急便グループの創立者である佐川清氏は新潟県出身で、熱烈な田中角栄信奉者であった。細川氏の選挙も長年支援してきた。佐川氏が一億円を融資して、細川氏がこれを返済するなどという関係は田中派の金のやり取りではない。
首相というのはつらいものである。四六時中証言台に立たされているのである。政治改革を標榜する細川首相の一億円問題を追及することは憚られることではなかった。細川首相が出席する委員会(主として予算委員会)で私は執拗に追及した。それは4ヶ月にも及んだ。細川氏は返済したことを証明するに足りる証拠を提出することができず、1994年4月8日退陣を表明した。
非自民連立政権内部ではもうひとつの問題が起きていた。国民の高い支持率があることのおごりからであろうか、かなり強権的な政権運営がなされ、特に社会党左派には強い不満があった。私はこの点に着目し、一億円疑惑の追及と平行して、自民党と社会党との連立を真面目に模索することを始めた。社会党との連立を志向する以上、その中心に憲法問題が話題となることは避けられない。
私たちは、正面からこの問題を議論した。自民党と社会党と新党さきがけの有志でつくった「リベラル政権を創る会」の設立趣意書で、次のように結論づけ合意した。
日本国憲法の精神を尊重し、自由で公正な社会をつくり、市民参加を重んずる民主的な政治をめざす。
世界の平和と繁栄の中に日本の存立を求めるとの立場にたち、平和外交と国際貢献を積極的に進め、とくに近隣諸国との友好協力を深める。軍事大国主義はとらない。
個人の尊重・自立自助の精神の確立・社会的公正の確保を基本理念とし、適正規模の政府により、いきいきとした市場経済と温かい福祉の調和した男女協同参画型の豊かな共生社会をつくる。
自社さ連立と自民党
社会党との連立は憲法問題を抜きに成立するはずがない。社会党との連立なくして自民党は決して政権に復帰できなかった。自民党は政権に復帰しなかったらその崩壊を食い止めることは多分できなかったであろう。自社さ連立に対しては野合との激しい非難が浴びせられた。多くの造反者もあった。しかし、自民党が政権に復帰したその日から自民党からの離党はピタリととまった(首班指名選挙で村山富市氏に投票しなかった者も含めて)。
1996年1月2日村山首相は退陣した。自社さ連立の第一党である自民党の総裁であった橋本龍太郎氏(前年の9月就任)が首相となった。橋本氏が首相となったことにより、その年10月に行われた小選挙区制の下における初の総選挙で自民党は過半数に限りなく近い245席議席を獲得した。自民党の総裁である橋本氏が首相でなかったら、自民党はこのような勝利をおさめることは決してできなかったであろう。橋本総裁─加藤紘一幹事長のもとで総務局長という選挙の責任者をつとめた私は、自信をもってそう断言できる。
一方、社会党はさまざまな理由で旧民主党(鳩山由紀夫氏と菅直人氏を代表とした)に入党する者と新たに結成された社民党に入党する者に分かれた。日本社会党という戦後の政治の中で常に野党第一党の地位を占め、その役割を担った政党は消滅した。しかし、それは自社さ連立をしたためではない。別の理由によるものである。
崩壊直前までいった自民党が今日あるのは自社さ連立で政権に復帰したからである。自社さ連立をした時の自民党総裁は河野洋平氏(現衆議院議長)であった。自社さ連立は河野洋平氏だから可能だった。安倍氏のように憲法改正を公然と主張する総裁だったら、自社さ連立などあり得なかった。安倍氏は、「リベラル政権を創る会」の発起人であり、こうした経緯は知っているはずである。
現在の自民党には、1996年の総選挙で血みどろの戦いをした新進党にいた者も数多くいる。その大半は今回の総裁選で安倍氏を支持した。安倍氏は、憲法改正を内閣の課題とすると明言した。その安倍氏は党内の3分の2の支持を集めて総裁となった。その安倍氏を公明党なども支持して安倍内閣が成立した。安倍内閣は5年を目途に憲法を改正したいとしている。
憲法改正問題は、現実の政治問題となった。憲法は、いつも政治とともにある。憲法を論ずる時、私たちは憲法とからみながら動いてきた政治史に立ち返らざるを得ない。この小論は、戦後民主主義といわれるものの内実を検証することにもなろう。
*この小論は『マスコミ市民』平成18年11月号に掲載されたものである。