血で購われた基本的人権
07年02月04日
No.326
昨日updateされた『月刊マスコミ市民』2007年2月号に掲載された憲法改正問題講座ー4の「血で購われた基本的人権」を読んでいただいただろうか。まだの方はぜひお読みいただきたい。この原稿を送ったとき、編集長から読んでいて涙が出てきたと褒められた。苦労して書いたものだが、疲れが吹き飛んだ。幾つになっても人間褒められるということは嬉しいものだ。私も意外に単純なのである。
私は前々からわが国の人権史を一度まとめてみたいと思っていた。しかし、今日までその機会がなかった。今回はじめてこれに着手することができた。もちろん憲法改正問題の一節として書くのだから、それほどたいしたものではない。端折(はしょ)りに端折ったものに過ぎないが、改めてわが国の人権のルーツを辿るといろいろな感慨をもたざるを得ない。幸徳秋水と小林多喜二には触れたが、本当は治安維持法の改正(最高刑を死刑にするという内容の改正案)に反対し、右翼に暗殺された山宣こと山本宣治も紹介したかったが、紙数の関係で省略せざるを得なかった。
歴史書や歴史物を読んでいて私がいつも感ずることは、この世の中でいちばん進歩しないのは人間であるということだ。逆にいうと人間はかなり昔にも現在の私たちと同じような価値観をもち、同じようなことを考えていたのではないかということである。私がわが国の人権史にこだわる理由はそこにある。基本的人権という言葉などない時代にも、私たちの先祖は同じようなことを言葉は違っても考え、主張し、要求していたと思えてならないのだ。人間として求めていたものが江戸時代であろうが、明治時代であろうが、現代であろうがそんなに変わっているとはどうしても思えないのである。
現代の私たちの生活は素朴さを失っている、と私は思っている。素朴さを失ったために素朴な人間の生活にどうしても求められる基本的人権のありがたさをかえって忘れたり、感じられなくなっているのではないかと危惧しているのである。基本的人権を求める闘いは、素朴な生活の中から出てくるものだから素朴でぎこちないものかもしれない。いやきっとそうだろう。それでいいのだ。市井の人が訥々としかし真剣にのぞんでいることを保障する基本的人権でなければならない。その人はきっと器用でないだろう。不器用でもいいではないか。しかし器用な役人が上等の手段を使って、こういう人たちの基本的人権を奪っている。責められなければならないのは、不器用に訥々と人間のあり様を訴える庶民ではないのである。
この土日に3月号の原稿を書かなければならない。次回のテーマは、戦後わが国の社会のあり方を変えた基本的人権である。戦後民主主義ということが問題にされる。安倍首相のいう戦後レジームの大半は、戦後民主主義といわれているものが生み出したものである。しかしそれは政治の表層に過ぎないのではないかという気がしてならない。憲法が保障した基本的人権はそれよりももっと深いところで、わが国のあり方を変えたのである。私はそのダイナミックな動きを目撃してきた。それを書く予定である。乞う、ご期待。
それでは、また。