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テレビ雑考

※この小論は、2004年10月20日から3回に分けて掲載した時事小論
「テレビ雑考━その1~その3」に大幅な加筆や訂正をしてまとめ、
また見出しを付けたものです。

★日本のテレビはつまらない!

私は映画時代に育ちました。私が育った新潟県十日町市は、人口5万の小さな田舎町でした。でも映画館が3軒ありました。一つは、松竹系、もう一つは、東映系と日活系。あと一つは洋画専門でした。私は、高校時代の3年間、毎週この3つの映画館で映画を見ました。そのころは、1週間単位に新しいものがかかりました。「よくそんなに映画を見る時間があったな。それでよく東大にはいれたなー」などといわれました。でも、これ本当のことなんです。とにかく映画が好きだったのです。また私にとって唯一の娯楽でした。私の家にはテレビはありませんでした。いまは、どの家庭にもテレビがあり、受験生でもテレビは見ているでしょう。受験生が1日にテレビをみる時間を合計すれば、私が映画館で映画をみた時間よりもきっと多いはずです。

大学に入っても、私は6年間寮に入っていました。その当時、テレビは個人ではほとんど持っていませんでした。高校時代のように毎週3回も映画舘に行くことはありませんでしたが、それでも映画はけっこう観に行きました。このようなことですから、私にとっての映像文化は映画であり、テレビではなかったのです。でも最近では、滅多に映画舘にいって映画を観ることはありません。ですから、映像はほとんどテレビから入ってきます。この4年間は浪々の身、暇なものですからテレビを見る時間がかなりあります。このようにテレビを見る時間が多くなって痛感することは、日本のテレビはどうしてこんなにつまらないのだろうかということです。わが家はBSアンテナを持っていませんので、わが家のテレビで見れるのは、地上波6チャンネルの放送だけです。そのすべてのチャンネルを回してみても、観たいという思う番組が一つもなく、スイッチを切ることがかなりあります。

私は、いうならば特殊な生き方をしてきた人間です。ですから、お前がつまらないといってもそれは例外であり、一般の視聴者はそんなにつまらないと思っていないのだという人もいるかもしれません。しかし、私も、そんなに特殊な感覚を持っているわけではありません。また、テレビにそんなに特別なものを求めている者でもありません。娯楽番組には娯楽として面白いものを求め、報道番組には報道として、迫力のあるものを求めているだけです。教養番組には、テーマを問わず知的興味をそそるものであれば、それでいいのです。しかし、現状はそうでないからつまらないと感じ、こうして若干、(いきどお)っているのです。これが、この小論を認めてみようという気になった動機です。気軽にお読み下さい。

なぜ日本のテレビはこうもつまらないのか? 何といっても、制作者の意欲と意識の問題ではないでしょうか。よく激しい視聴率の競争があるといわれますが、そんなに緊張感があるとは思いません。私にいわせれば、ダメなものどうしの競争ですからドングリの背比べに過ぎず、それで責任を取らせられることなど現実には滅多にないじゃないか、ということです。映画の競争は、興行成績が文字通り、まさに幾らいくらと金額で明らかになるわけです。緊張感は、テレビの視聴率競争とは全然違うのです。

★面白くなかったらドラマじゃない

つまる、つまらないという次元から話をはじめたのですから、まず娯楽番組から論を進めます。娯楽番組といえば、何といってもドラマですが、今、テレビで放映しているドラマで2度、3度と観たくなるものは、滅多にありません。1時間番組といっても、コマーシャルの時間を除くとだいたい45分です。45分では、見応えのある面白いものは作れないのではないかと思います。私がいま一番面白いと思って観ている連続ドラマは、TBSの『渡る世間は鬼ばかり』です。橋田寿賀子さんの脚本がまずいいのでしょう。それに加えて、俳優が素晴らしい。テーマが幅が広く見応えはあるのですが、45分ではちょっと窮屈すぎる気がします。せめて、丸1時間は欲しいですね。

『刑事コロンボ』は確か45分番組だったと思うのですが、十分に推理ドラマの迫力と魅力がありました。こうなると、これは脚本力の問題ということになるのでしょうね。『刑事コロンボ』には及びませんが、45分番組ながらなかなか面白いのが、藤田まことの演じる『はぐれ刑事・純情派』です。ただこれは、藤田まことの魅力がなければ、とてももちませんね。芸能評論家でもない私がなんでこんなことをいうかというと、私たち日本人がみて面白いと思えないドラマが外国に売れる筈がないということです。韓国の『冬のソナタ』が日本でブレイクしましたが、日本のドラマで最近国際的に大反響となったものが果たしてあるでしょうか。

私は昔(約30年前)、よくこんな演説をしました。

「テレビというのは、映像を観る機械です。いま、世界のテレビはほとんど日本製ですが、テレビに映る映像を売れる国にならなければ、日本が本当の先進国になったとはいえません。皆さんの家のテレビでもアメリカの映画がよく放映されるでしょう」

いまや日本人が見るテレビ受像機は、その多くが東南アジアで作られています。最近は日本のメーカーも液晶テレビとかプラズマテレビを開発して頑張っていますが、これもいずれ東南アジアなどで作られることになるでしょう。テレビ受像機ではなく、映像を売れる国になることが、わが国の本当の課題なのです。「これからは、ハードよりソフト」という言葉が人口に膾炙して久しくなります。テレビ受像機はハード。映像こそ文字通りソフトです。ドラマはもっとも商品性のあるソフトです。そのソフトが売れないことは悲しいことであり、日本経済の根本問題なのです。

昭和20年代に黒澤明の『7人の侍』や『羅生門』などは外国でも売れたのです。いま観ても、『7人の侍』などはたいしたものだと思います。歯切れのよい台詞(せりふ)、テンポある場面展開、嫌味のない人間愛。いま、わが国のテレビで流されているドラマには、このいずれもありません。だから、私たちの心を打たないのだと思うのです。日本人の心を打つことができないドラマが、外国の人々の心に響くことは絶対にないでしょう。こんなことは別として、とにかく理屈抜きに面白いドラマがみたいものです。

★迫力のあるニュースと報道番組が観たい

報道番組といえば、まずはニュース番組でしょう。最近は、テレビのニュース番組もかなり充実し、新聞を読まなくとも大体のことは判ります。また、新聞よりも速報性があり、迫力もあります。これは率直にいって評価します。でも、大体10分前後で国際的なニュースから国内のニュースまで報道するのでは、基本的に無理がありはしないか、という気がします。そこで特に「皆さまのNHK」には、「せめてNHKくらいはもう少しニュースを流してほしい」といいたいのです。現在のところ、NHKは朝の『おはよう日本』をはじめとしてニュースの時間帯をかなりとっています。しかしニュースそのものの時間は、全国版で10分あるかないかです。民放とほとんど変わりません。もう少しニュースの時間をとるべきだと思います。個々のニュースの重要度は視聴者が選択するのであって、テレビ局が今のように絞り込むのは問題だと思います。

報道番組で私が特に関心をもっているのが、特定のテーマについて掘り下げて報道する番組です。文字通りの報道番組─ドキュメンタリー類ですね。わが国では、これが貧弱なような気がします。わが国のもっとも古典的(?)な報道番組は、TBSの『報道特集』だったと思います。毎週日曜日に午後6時から1時間放映していました。現職の国会議員の時、週末はほとんど選挙区で国会報告会を行なっていました。夜の会場に行く前、食事をしながらほとんど観ました。面白い迫力のある番組でした。現在は日曜日の午後5時半からやっています。もう30年ちかく続いている長期番組です。

私がほとんど毎週観ているサンデープロジェクトでも、ときどき、この種の番組をやっています。面白いのもありますが、イマイチという感じがします。サンプロの売りは、なんといってもやはり田原聡一郎氏の政治トークショーなのでしょう。筑紫哲也氏の『ニュース23』でも、時々こうした特集をしており、見応えのあるものがあります。しかし、定期的に報道番組をやる、観れるということがやはり大事なのだと思います。

それから私がちょっと奇異に感じることは、わが国のテレビは天気予報をどうしてこんなに熱心にするのだろうかということです。特に朝は多いですね。人によって起きる時間もテレビをみる時間も違いますから、仕方がないとは思いますが、まあそれにしても、ちょっと多すぎる気がしてなりません。最近はほとんどの局でも気象予報士が天気予報をしています。ですから、気象に関する知識や歳時記的なものを付け加えてくれるので、多少は救いとなっていますが…。アメリカでは気象専門チャンネルがありますので、天気予報を観たければ、そのチャンネルにあわせればいい訳です。日本のCATVにもほとんど気象専門チャンネルがありますが、CATVの普及率がアメリカとは問題になりません。だから仕方がないのかもしれませんね。

★テレビが政治を動かす!?

テレビが政治をどう取り扱うかということについて、私の考えを述べます。平成5年の総選挙で自民党を野党にし細川連立内閣を作ったのは、テレビだといわれました。その選挙の前、私は浪人中だったので、テレビをよく観ました。ですから、この時にテレビが果たした役割をよくみていました。テレビが政治を動かした、細川内閣を作ったというのは、その通りだと思います。その結果、自民党は野党になり、私も政治的には苦しい立場に立たされました。でもテレビが政治を取り上げ、国民がこれに呼応して動いたことに反感をおぼえたことはありません。

さて、その後はどうなのでしょうか。加藤の乱の時は、まさにテレビが日々報ずる報道と国民の政治的マインドが、細川連立内閣のあの時と同じように同時進行していたような気がしました。しかし、それ以後、あのような緊張した政治報道はなくなってしまったというのが私の率直な印象です。小泉内閣発足当時のあのお化けのようなフィーバーは、間違いなくマスコミ特にテレビが作ったものでしょう。でも、これは、政治権力に対してマスコミが緊張感をもって迫るというものではなく、政治権力に擦り寄るというものでした。太平洋戦争当時、大本営の発表をマスコミ(当時は新聞とラジオ放送)が無批判に垂れ流した姿に似ている気がします。日本のマスコミがこのような体質をもっていることを、私たちは忘れないようにしておいた方がいいと思います。

いまや定番となったフジテレビの『報道2001』、NHKの『日曜討論』、テレビ朝日の『サンデープロジェクト』がありますが、いまやちょっとイヤミがあるような気がしてなりません。どういうイヤミかというと「俺たちは、日本の政治を動かす力をもっているのだぞ」という奢(おご)りとでもいっていいでしょう。これらの番組が政治を動かしたのは、選挙制度の改革とか森内閣の打倒という具体的なテーマを、正面から素直に執拗に報道したからです。このテーマに国民が関心をもったのです。これらの番組のキャスターの発言に国民が動かされたのではないのです。しかし、キャスターたちは、かつての栄光の残像からでしょうか、自分たちの影響力で国民が動くと思っているのではないかというイヤミが、ちょっと目立ち過ぎるのです。

政治を報道する時に一番大切なのは、率直さと謙虚さと熱情だと私は思います。私も何度かこうした番組に出たことがありますが、出演する側にも、このような気持が必要だと思います。最近の政治家は、テレビに出さえいれば人気がでてくると思っているようですが、変な出方をすれば人気を失い、嘲笑を買うこともあることを知らなければなりません。少なくとも、マスコミに迎合するような発言はしないようにすべきです。そうするとテレビ局は声をかけないのですが、それはそれでいいのです。なんでもいいからテレビに出たいという考えはよくありません。そういう感じのする政治家が多すぎます。

政治というのは、本来はおもしろいものなのです。ですから、取り上げ方によっては十分視聴率も稼げるし、日本を良くするために大きな役割を果たすこともできるのです。そのような番組を作るためには、テーマの選択と出演者の顔ぶれが大事だと思います。最近の政治番組をみていると、キャストがあまりにも偏っているような気がします。問題意識と発想が固定しているのではないかと思います。この日本にも、多彩な政治家や政治評論家が沢山いるのです。

★ワイドショーは、もっとワイドに!

ワイドショーといわれる番組はどうでしょうか。かつては、午後3時頃の時間帯に奥さまをターゲットとするワイドショーが一般的でした。最近は午前8時頃から、正午から1~2時間前後、伝統的な午後3時前後と、ほんとに多くなりました。私は特に観たいというワイドショーがある訳ではないのですが、これだけワイドショーがありますと、チャンネルをひねるとワイドショーという時間帯がかなりあります。

それだけにワイドショーも、かつてのように確かにワンパターンではなくなりました。特色を出さないと視聴率が稼げないからでしょう。でも芸能関係のニュースというか、話題はあい変らずワンパターンという気はします。正式な記者クラブがある訳ではないのでしょうが、ここでも特落ち(特ダネの逆)さえしなければいいという風潮が強くなっているのでしょう。

ワイドショーというと「政治のワイドショー化」ということが少し前、かなりいろいろな意味で使われました。最近は、かつて大流行したリベラルと同じように、この言葉はあまり耳にしません。田中外相の辞任劇が最後の出番だったでしょうか。ワイドショーが政治を取りあげてくれるというのは、政治の側としては本当は喜ばなければならないのだと私は思ってきました。いまや女性の政治意識は高く、また女性は男性とは違った関心と感性をもっています。女性の視聴者が圧倒的に多いワイドショーが政治を取りあげ、女性の政治についての関心と問題意識を高めることは、日本の政治にとって有意義なことだと思っています。ですから、ワイドショー的というか芸能番組的にではなく、政治問題をしっかりと正面から扱って欲しいと思います。いまや、女性は決してワイドショー的に扱わなくとも、政治問題をしっかりと受け取けとめる力をもっているのです。

ワイドショーというと作る方も見る方も、女性のための番組という既成観念が一般的なような気がします。いまは必ずしもそうではないのではないかと、私は思っています。いま私は浪々の身ですから、ワイドショーの時間帯にテレビを見ることも多いのですが、年金生活者が増えてきていますから、こうした男性もけっこうワイドショーを見ていると思います。いや、ほとんどの局が同じ時間帯にワイドショーを放送する現在のような状態だと、見ざるを得ないのです。そうすると、女性の関心ある話題だけ取りあげるというのは、いかがかなものでしょうか。最近は、このことに気が付いたワイドショーがいくつかでてきました。いいことだと思います。

それにしても、健康というのは一般的な関心事なんですね。正午はどなたもニュースをご観になることが多いと思うのですが、それから何を観るかです。みのもんたの『おもいッきりテレビ』は私もよく観ます。特に観たい番組がなければ、これを観ます。一番最初の健康を取りあげたものもいいのですが、その次の「今日は何の日」はたいへんいい番組だと思います。扱うテーマが広く、はじめて知ることも多くあります。そのまた次の「なんだかそれよさそう」も、その地方の雰囲気が感じられます。もう少しその地方の紹介をすると、もっと良いものになるような気がします。『おもいッきりテレビ』であれがいいと放送されると、翌日のスーパーやデパートは売り切れになるのだそうです。こうなるとスーパーなどの仕入れ係は、この番組を観るのも大きな仕事なのでしょうね。

★教養番組は意外に面白い

教養番組というのでしょうか。ここでは、歴史や社会問題や科学などを正面からとえた番組のことをいいます。教養番組が日本のテレビでは、ちょっと少なすぎると私は思います。NHKの『プロジェクトX』などは、DVDが売っているくらいですから、視聴者の関心が高い証拠です。私も観れる時は、必ず観るようにしています。最近ちょっとネタ切れというか、かつて程の迫力がないような気がしないでもありませんが…でも、いいテーマを見つけて、ぜひ続けていってもらいたい番組です。同じくNHKの『その時歴史が動いた』も、私の好きな番組です。私は、NHKの自然を扱ったものや、シルクロードものが大好きですし、いいものが多くあります。でも、放映時間が午後8時とか9時が多いため、生放送で観れることは少なく、深夜の再放送で観ることがほとんどです。

民放にこういう教養番組が皆無というつもりはありません。だが、極めて少ないことは事実です。教養番組は、いわゆるジャリタレという人を集めて、愚にもつかないことをワイワイガヤガヤするよりも費用と時間がかかります。しかし、テレビ局が公共の電波を使って商売していることを考えているならば、教養番組をもっと作って欲しいと思います。免許を与える条件として、一定の時間は教養番組や教育番組を放送することを義務付けてもいいのではないかと私は思っています。放送法は、「放送事業者は、テレビジョン放送による放送番組の編集に当たっては、特別な事業計画によるものを除くほか、教養番組又は教育番組並びに報道番組及び娯楽番組を設け、放送番組の相互の間の調和を保つようにしなければならない」(第3条の2の第2項)と定めているのですから、これは可能なのです。

ドラマの項で述べましたが、わが国の放送番組も多少は外国に売れているのですが、その大半は実はこのような教養番組というか教育番組なのです。ドラマに比べれば、比較的一般性があるからでしょう。また現在放送されているこういう番組は、ドラマやワイドショーに比べれば明らかに質が高いと思います。映像ソフトが売れる国になるというのは、先進国の一つの証明みたいなものです。また優れた映像ソフトを作るためには、総合的な力が必要なのです。国際的競争力のある商品を作るというのは、工業の世界ではいまや当然の前提なのですが、どうして映像の分野ではこういう問題意識がないのでしょうか。加工貿易立国の固定観念からなかなか抜け出せないのでしょうね。

夜12時を過ぎてテレビのチャンネルを回すと、私には何が面白いのかぜんせん分らない番組が放送されています。本当に面白いものならば、年齢や性別や職業を問わず引き込まれるものだと思うのです。特殊な人々(その大半は若い人をターゲットにしています)にしか興味のない、また特殊な人々にしか分らない番組をほとんどの民放が流しています。多少は放送について関心をもち、勉強してきた者からみたならば、明らかに制作費を安くおさえるために作った番組だと分ります。「いい加減、勘弁してくれよ」という気持になります。深夜は視聴率が低いので、あまり制作費をかけることができない事情は分かります。だったら、その局がもっているいい物を再放送すればいいのではないかと思います。深夜テレビをみる人は、ゴールデンアワーに流された高い制作費をかけた良い番組を意外に観ていないのです。

ですから、深夜テレビを観るときは、圧倒的にNHKが多くなるのですが、結構いい番組をやっています。多くは教養番組や教育番組です。もちろんほとんどは再放送ですが、いいものは多少時間がたっても十分に鑑賞にたえますし、テーマがテーマですから多少時間がたっても少しも差し支えないのです。これでいいのだと私は思います。しかし、NHKまでも民放よろしく特殊な人々にしか興味のない、また理解できない番組をやっている時もあります。そうなったら、テレビのスイッチを切るしかありません。せめてどこか一局でもいいから、観るにたえる番組(それは人によって異なるでしょうし、異なって当然です)を流していてもらいたいものです。

★マインド・コントロール的なコマーシャル

私がNHKの放送を見る大きなの理由の一つは、コマーシャルがないからです。わが国の民間放送は、コマーシャルを流す時間が多すぎるのではないでしょうか。民放が広告収入で経営されていることくらいは、誰でも知っています。だからといって、これだけコマーシャルを流すことはないじゃないかという気がします。コマーシャルには、商品に関する情報を流すという一面もあるのですが、それにしてはあまりにも同じ会社の同じ商品のコマーシャルが多すぎます。テレビの場合、コマーシャル料が高いために、一部の会社しか実際には宣伝の媒体として使えないのです。同じ会社の同じ商品の宣伝は、コマーシャルというよりマインド・コントロールを狙っているのではないかという感じすらします。

私はコマーシャルについては、総量規制をしてもいいのではないかと考えます。また、マインド・コントロールを狙っているような同一商品のコマーシャルには一定の制限を設けてもいいのではないかとも思っています。さらに、コマーシャルの料金が高いために、テレビによる宣伝ができない会社のために、一定の時間帯を安価に提供することも義務付けてもいいのではないかと考えます。もちろん、社会的有用性などを加味した、公正かつ公平な客観的基準は必要でしょう。そんなものを作ることは、難しいことではありません。

それから、外国資本のコマーシャルについては一定の比率を設けることも真剣に検討すべき時期がきているのではないかと思います。NTTなどは、外資規制があります。放送が社会に及ぼす影響は、はるかに大きいのです。テレビと政治の項で述べたとおり、時には政変を起こす力が放送にはあるのです。また、豊かな民族性や国民性を作るうえでも、大きな影響力をもっています。要するに放送はわが国の政治・社会・文化に大きな影響力をもっています。私は国粋主義者の対極の政治的立場に立つ者ですが、わが国固有の利益や国民性や民族性はあると考えています。ニュースや報道番組については、一定の規制は考える必要があるでしょう。既に、ニュース番組のスポンサーになっている外国資本が現にいくつかあります。

もう一つ、コマーシャルを流す時間帯です。ある局がコマーシャルを流す時間帯は、他の局もほとんどコマーシャルを流しています。私は新聞の番組表を見ながらテレビを観るほどではないので、コマーシャルが流される時間に他のチャンネルを見ます。他の局もコマーシャルを流していたのでは、せっかくいい番組を流していたとしても、これを知ることが出来ないのです。民放各社が談合して、視聴者の囲い込みをしているのではないかという気さえします。これでは競争はありませんから、切磋琢磨は起きないでしょう。これはよくないことです。こんなことですから、私はコマーシャルの時間は、NHKを見たり、雑用をするいい時間帯と諦めています。

★低俗な番組も品位を高くする高品位テレビ?!

冒頭に述べたとおり、わが家にはBSアンテナがありません。家事の実権を握っている家内がBSアンテナの設置を必要を認めていないために、私はBS放送を観ることができないのです。結構いいものを放送していると思うのですが…。いまや1300万所帯でBS放送を見ているので、BSは決して珍しいメディアはなくなりました。CATVも1500万所帯が加入しています。CS放送を見ている所帯数は370万世帯あります。最近では、インターネットでテレビ放送をしている事業所もあります。このようにニューメディアは、少しずつではありますがわが国でも着実に普及しつつあります。今後ともニューメディアの普及のために国は努力していく必要があります。

ニューメディアは、技術の進歩と国の努力があれば確実に発展・普及していきます。こうした中で、関係者が意外に関心をもたないのが、そのメディアにのるソフトのことです。ハイヴィジョンテレビのことをかつて"高品位テレビ"と呼んだ時代がありました。「低俗な番組も、品位のあるものとなるテレビ」などという冗談をいい合ったものです。このようにニューメディアは、所詮どこまでいっても映像を媒介するツールにすぎないのです。映像を媒介するツールがいくら増えても、よい映像が制作されず、またよい映像を利用できなければ、ニューメディアは決してバラ色の世界を私たちに与えてはくれないのです。

わが国には、かつてテレビ放映された番組を保存している総合的なライブラリーがありません。NHKなどは、そのようなライブラリーを作って一般にも公開しています。各放送局でも、自社のものは相当保存しています。かつてはビデオテープでこれを保存しておかなければならなかったために、膨大なスペースが必要だったのです。現在では、デジタル化して保存することでスペースの問題は解決しています。映像の劣化の問題もなくなり、また自分の観たい番組に簡単にアクセスできるようになりました。

通信カラオケがある時代です。光ファイバーを使って、自分の観たい番組を自宅のテレビで安価に観れるようにできるように早くならないかなぁーと思います。大容量のDVDで番組を所蔵しているライブラリーと私たちの家が光ファイバーで結ばれれば、これは十分可能なのです。

いい番組を作ることは、もちろん大切です。しかし、いい番組を作るにはお金がかかります。ですからいい番組は、いろんなルートを通じて多くの人が観れるようにすることが必要なのです。著作権の問題は、そんなに大きなことではないと私は思います。制作の過程で最初からちゃんと決めておけば済む問題です。NHKなどは、チャンネルをいっぱい持っていることもありますが、深夜時間帯やBS放送で何度も放送しています。民放ももっと再放送をしてもいいのではないかと思います。いいものは何回観てもいいのであり、手抜きをしているなどと視聴者は決して思いません。その代わり、再放送に耐えるだけの番組を作らなければなりません。ニューメディアの普及・発展の速度は、私が思っていたよりも決して早くはありませんでした。それでもニューメディアは、確実に普及していくことでしょう。でもいいソフト=映像がなければ、ニューメディアもたいしたことにはならないのです。高品位テレビ(ハイビジョン)が低俗な番組を品位の高いものにする力がないように…。

★NHKアカデミーの設立

いま韓国のドラマや映画が日本で大人気です。それに伴い、韓国の俳優も非常な人気です。冬のソナタが放送されている時は、居間に入っただけで「いま大事なところなんですから、あっちに行って下さい」と家内に追い出されてしまいました。ですから、冬ソナは全然見ていないのですが、日本テレビが放映していたホテリアーは観ました。もちろんトビトビですが…。あのヨン様も出演していましたが、他の俳優もなかなかなものでした。率直にいって面白かったです。

ある人から聞いたのですが、韓国は何とか面白いテレビドラマや映画を作れるようになりたくて、200~300人規模の専門の学校を作ったのだそうです。大学なのか専門学校なのか聞きそびれてしまいました。創立からまだそんなに年月は経っていないそうです。その成果でしょうか、わが日本で韓国ブームといわれるほど、競争力のあるドラマや映画を現に作っているのです。私は以前から、NHKは「NHKアカデミー」みたいなものを作ったらどうかといってきました。それは、わが国の映像文化を支える人々の養成が劣悪だということを知っているからです。その実情たるや、ほとんど徒弟制に近いのです。

文化・芸術は、ある程度、徒弟制でないと養成できないところもあるのでしょう。その場合、優れた「師」なしでは、徒弟制は成り立たちません。例えば、あなたは『渡る世間は鬼ばかり』の監督は誰だかいえますか。テレビドラマの場合は演出というのでしょうが、ほとんどその人の名前を知りません。私もたったいま答えることはできません。映画の場合、監督のウエイトが圧倒的に大きいものでした。黒澤明監督の映画は、それだけでブランドだった訳です。また黒澤監督は、その期待に十分応えました。そのような師がいてこそ、徒弟的な関係でもいい弟子が育ったのだと思います。

また、かつては大映、東映、松竹、日活という経営基盤のしっかりした映画会社がありました。そういう中で、優秀な監督や映像技術者が育ったのです。アメリカには、ハリウッドという映画を作る大集積地がいまなお健在です。イギリスやフランスの事情は知りませんが、きっと何かがあるのでしょう。映画産業が衰退し、多くの映像技術者を育てることができなくなったのです。

このような現状では、映像技術者を育てる機関がどうしても必要だと私は思っているのです。NHKの年間予算は6000億円あります。これは国民の視聴料で賄われます。そのうちの200分の1=30億円くらいを投じて、映像芸術・文化の専門大学校として、アカデミーを作ったらどうかと考えるのです。もちろん、卒業生にはNHKに就職することを義務付けず、広く放送関係に開放すべきだと思います。NHKには、そのくらいの使命と義務があると思いますし、また、国民もこのことを理解してくれると、私は信じています。

教育というのは、お金をかけたからといって必ず成果がでるというものではありません。しかし、教育や人材の養成をしなければ、有能な映像技術者や黒澤明のようなすごい監督を得ることは僥倖(ぎょうこう)をただ待っているに等しいのです。優れた映像芸術や映像文化を育てることは、わが国の場合、偶然や僥倖にたよるだけではすまされない問題だということを、私たちは肝に銘じなければなりません。

★1億総評論家の勧め

テレビなどあまり観ない私が、愚にもつかないことをいろいろと書き連ねました。最後まで読んでいただいたことに感謝します。非難や批判を覚悟して敢えてこのようなことを述べたのは、映画や映像が好きだからです。映像は、文字や絵画と同じくらい私たちの感性に訴える力をもっています。私自身にとっても、人格形成のうえで映像(その大半は映画ですが)は大きなウエイトをもっていました。

私は昔から「日本という国は、外国によく理解されなければ、最後は生きていけない国なんだ」と基本認識をもっています。映像は、民族や宗教や言語を超えた伝達手段です。橋田寿賀子さんの『おしん』が多くの発展途上国でブレークしたことは、あまりにも有名です(ただ、ほとんど無償でビデオが提供されたということはあまり知られていませんが)。映像は、日本を理解してもらうために大きな役割を果たすことができる手段です。現在わが国の映像は、圧倒的にテレビ放送を目的にして作られています。その量だけならば、世界でももっとも多い国の一つでしょう。

しかし、テレビで放送される映像や内容が満足できるものではないことは、多くの人々が感じていることです。かつて稀代の評論家大宅壮一氏がテレビを「1億総白痴化」と酷評しました。これだけテレビ放送が普及しても、それほど酷(ひど)くはなっていないと私は思います。しかし、テレビがもっている力を十分に発揮している状態かといえば、首を傾げざるを得ない人が多いのではないでしょうか。インターネットが普及し、映像もかなり自由に伝達できるようになりましたが、テレビ放送に比べれば、残念ながらその影響力は当分の間太刀打ちできないでしょう。

テレビ放送は社会に大きな影響力をもつ情報・芸術・文化の伝達手段です。しかし、テレビ放送について本格的な評論があるかというと、意外に少ないのです。ほとんどすべての分野の評論家がいるのですが、放送評論家と自ら名乗っているのは天野祐吉氏(1度お会いしたことがあります。専門家だけあって貴重なお話をお伺いしました)くらいしか、私は存じあげません。テレビで結構お見かけはしますが、放送評論家でありながら放送についての評論はさせてもらえないようです。批判や評論を受け付けようとしない体質がテレビ局にあるのだと、私は思っています。第三者からの批判や評論に耳を傾けない者は、必ず堕落します。マスコミは、いまや第四の権力なのです。批判を拒む権力は、必ず腐敗し、堕落します。

いまや誰もが日常生活の一部として見ているテレビについて、あえて愚見をとりとめもなく述べたのは、テレビがそれだけのウエイトをもっているからです。テレビ放送は、もっと国民から批判され、切磋琢磨しなければなりません。あなたにも、テレビを観ながら、ここで私が述べたと同じように、それぞれの考えを深めていただきたいのです。そして、お酒を呑みながらでも結構ですから、お互いに話し合っていただきたいのです。民の声は天の声、必ずテレビ局にもその声は届き、テレビ放送の質の向上につながることと信じています。

(了)

白川勝彦

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