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FORUM21 2008年1月1日 通巻141号
特集 08年の池田創価学会と自公政権を占う
自公“合体”政権は、すでに裸の王様である
白川 勝彦 (元衆議院議員・弁護士)
2008年の政局は、単純明快
2008年の政局展望は、きわめて簡単である。自公“合体”政権は解散総選挙を先延ばしすることは考えている。しかし、おそらくこれを避けることはできないであろう。そしてその結果は、自公“合体”政権の敗北である。
私の政局展望は、いつもこのように単純である。私はいつ解散があるかとか、総選挙の予想がどうなるかということにあまり関心がない。そんなことは、それで飯を食っている評論家にまかせておけばよいと思っている。解散がいつあるかなどということは、国会に籍をおいたときもあまり関心がなかった。解散の時期を正確に予測したとしても、だからといって選挙の勝利に繋がる保障はなかった。だとしたら、あまり真剣に考える意味がないではないか。
総選挙の結果の予測は、もっと難しい。いくら真面目に考えても、選挙はやはり水モノである。何が起こってくるか予想すらできない。自分の選挙を含めて事前にその結果を予測できたとしても、打つ手がなければ意味がない。結果が出たときには、すべてが終っているのである。
そんな選挙にかかわる人生を私は30年近くも過ごしてきた。総選挙の結果は、そうした一つひとつの選挙区のトータルである。従って総選挙の結果を予測することはきわめて困難である。
参議院を馬鹿にしていた自公“合体”政権
私はこのような諦観をもちながら解散総選挙というものを捉えていた。だからといって、選挙は博打ではない。政治の延長線にあることは事実である。選挙に勝とう思うならば、真面目に政治を行うしか道はない。どういう政治をやるかは、政権党ならある程度責任をもっていうことができるし、実行も可能である。それが政権党の強みである。野党は敵失を狙うしかない。
しかし、今回の総選挙についていえば、結果の予測はきわめて簡単である。白公“合体”政権は負けるのである。これはハッキリしている。現在の自公“合体”体制の政権運営をみていたら、これを覆す可能性などほとんどあり得ない。白公“合体”にとっては、過半数を確保しても総選挙で勝ったことにはならない。現在衆議院でもっている3分の2を超える議席を再び獲得しなければ、政治的には敗北なのである。
「参議院選挙は政権選択の選挙ではない」などといって、白公“合体”政権は参議院選挙を馬鹿にしてきた。参議院を砥めてきた。しかし、それは政権運営を知らない者がいう台詞である。少なくとも歴代の自民党内閣は、このことを知っていた。だから参議院選挙で大敗し、参議院の過半数割れを喫した総理大臣が責任を取らなかったことなどなかった。
公明党もこれを知らない筈はない。創価学会・公明党にとって政権参加は悲願だった。それが可能になったのは、1998年(平成10年)の参議院選挙で自民党が大敗を喫したため参議院での過半数がなくなったからであった。当時自民党と公明党の連立には、国民の中に強い抵抗があった。下手をすれば、自民党は総スカンを食らう虞すらあった。それでも公明党との連立に踏み切らざるを得なかったのは、公明党の議席を当てにしなければ参議院での過半数を確保できなかったからである。
従って、自民党も公明党も昨年の参議院選挙で過半数か過半数近くの議席を維持するのに必死だった筈である。過半数近くならば、与党に取り込める議員も読めていたので、何とかできる可能性も織り込み済みだった。ところが、あまりの大敗だったためにあらゆる可能性が吹っ飛んだ。
“半身不随”よりはるかに深刻な事態
そこで福田首相が考えた手が、大連立構想だった。しかし、戦略や十分な準備がなかったためにその奇策は吹っ飛んだ。今後この手を使うこともできなくなった。白公“合体”政権は「参議院選挙は政権選択の選挙ではない」などと強がりをいっているが、参議院で過半数をもっていないと政権の意思を貫くことができないのである。半身不随の状態よりもはるかに事態は深刻なのである。
国会の意思は、衆議院と参議院のそれぞれの意思によって決定される。国会の意思は、ふつう法律によって表わされる。法律案は、衆議院と参議院のそれぞれで可決されたときはじめて法律となる。衆議院でいくら圧倒的多数で可決したからといっても、糞の役にも立だないのである。
衆議院で可決され参議院で否決された法律案を法律にすることができるのは、憲法59条2項の規定により衆議院で3分の2の多数で再可決した場合だけである。確かに自公“合体”政権は、現在その数をもっている。しかし、そのことがかえって仇となっている。
伝家の宝刀としての3分の2条項
法理論としては、3分の2条項で参議院で否決され皿だ法律案を再可決することにより法律とすることができる。だが、政治論としては、実際にそう度々使うことはできないのである。いうならば伝家の宝刀なのであ匹りる。伝家の宝刀というのは、ここ一番のときにだけ使則うものである。台所にある包丁とは訳が違うのである。
自公“合体”政権は、3分の2条項をできるだけ使って現在の“危機”を乗り切ろうとしている。しかし、そのことは“危機”をますます深刻にするだけである。自公“合体”政権は、そのことが分かっていないようである。
新テロ特措法案を再可決するために臨時国会を越年で再延長した。寺島実郎氏が「インド洋における給油活動などほとんどのアメリカ人が知っていませんよ。日米同盟とか国際貢献などと大きな声でいっているのは、日米安保条約で“飯”を食っている人たちだけですよ」と、あるテレビ番組でいっていた。それが現実だと思う。白公“合体”政権も要すれば同じ類なのである。だから防衛疑惑に迫ろうとしていないのである。
ガソリン税の暫定税率を10年間も延長するという。これも道路利権で飯を食っている人たちが困るだけのことである。3分の2条項をこんなことに使おうとしているのだから、白公“合体”政権は国民が本当に望んでいることが分からないのである。国民が真に望んでいることが分からない者には、政権を担当する資格がない。
自爆の道を突き進む自公“合体”政権
参議院選挙で大敗し、参議院で過半数を失った自公“合体”政権は、裸の王様なのである。その意思を国家の意思とする資格がない。憲法上、国民はその王冠を奪い取ることができないだけなのである。たまたま持っている3分の2条項という権力(=刃物)で、僅かの間勝手気ままを押し通すことができるだけに過ぎない。解散総選挙でその刃物を失うことは明らかである。
裸の王様にいちばん必要なことは、己が裸であることに気が付くことである。すべてはそこから始まる。安倍前首相の続投・派閥談合による福田首相の選出・年金問題での開き直り・3分の2条項の発動など、自公“合体”政権は原点に立ち戻って考える決意がないことを明らかにしている。愚かであり、哀れである。醜悪であり、見苦しい。
総選挙で敗北させることにより、国民は自公“合体”政権にその実態を明らかにすることができる。裸の王様に怯えたり、編される国民はいなくなる。すべての権力はある程度の虚像に支えられているものである。その虚像が白日の下に晒されたとき、権力は機能しなくなる。
“○○に刃物”という言葉もある。裸の王様ということに気が付かない自公“合体”政権をいつまでも政権の座に就かせておくことは危険である。解散総選挙は、一日も早いほうがいいだろう。私は最近そう思っている。望むらくは、自公“合体”政権を政権の座から引き摺り下ろすことである。
自公“合体”政権は、その道をまっしぐらに突き進んでいる。すべて自業自得である。もって瞑すべし。