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FORUM21 2007年10月15日 通巻136号
緊急寄稿
前代未聞の選挙のための連立!? ─ 矛盾を露呈した自民党と公明党の連立
白川 勝彦 (元衆議院議員・弁護士)
政治評論家森田実氏の指摘
「公明党には『公明』な政治姿勢を誠実に貫くことを要求したい。具体的に言えば2つある。
第一は、国民生活を破壊した小泉構造改革に積極的に協力し、推進してきたことを、はっきりと自己批判し、小泉構造改革との訣別を宣言することである。
第二は、大義名分がなくなった自民党との連立を解消することである。自民党と公明党の連立の唯一、最大の大義名分は、参議院の過半数確保にあった。参院の自民党の議席数が過半数に不足したため、数を補うために公明党と連立したのである。だが、去る7月29日の参院選で自民・公明の合計が過半数以下になっただけでなく、民主党単独の議席数を下回った。自民党は衆院では過半数を上回る議席をもっている。これで政権は維持できる。公明党と連立してもしなくても状況は変わらない。
自民党と公明党が連立する意味も、大義名分もなくなったのである。それでも両党が離れられないほど一体化しているのであれば、合同すべきである。大義名分なき連立は、政治を堕落させる」
以上は、政治評論家森田実氏のWebサイトの『森田実の時代を斬る』というコーナーに掲載された森田実の言わねばならぬ―[579](2007年9月22日掲載)からの引用である。引用にあたり私の責任で読み易いように改行などの変更した(Webサイトと印刷物ではどうしてもちょっと違うのである)。
ほとんどの政治評論家や政治コメンテーターが自民党と公明党の連立について口を噤んでいる中で、森田実氏は自公連立について批判をしている数少ない政治家である。私がハッとさせられたのは、“第二”の指摘である。私のように憲法論から批判してきた者にとっては、こんな単純なことを見逃していた。
選挙のための連立!?
そうだ。小渕首相や野中官房長官が公明党との連立に熱心だったのは、2000年夏の参議院選挙で自民党が大敗し、参議院で過半数を失った後であった。金融不安が懸念される中、わが国の政治に責任をもたなければならないというのが、自民党にとっても公明党にとっても国民から強い反発を受けていた自公連立を行うにあたっての最大の大義名分だった。
森田氏がいうように自民党と公明党の議席を合わせても参議院の過半数にはならない。また自民党内閣を存続させるためには、衆議院で自民党は3分の2を超える議席をもっているのだから、首班指名も憲法59条2項による法律案の再議決も単独で行えるのであるから、公明党との連立は必ずしも必要ではない。
そもそも連立政権を組織するのは、原則として憲法等の規定によってひとつの政党では政権を組織できないか、政権の運営が円滑にできない場合に行うものなのである。連立政権は選挙の結果を受けたものであり、選挙を目的とするものではない。わが国に誕生した過去の連立はこのようなものであったし、諸外国の連立政権もそのようなものと承知している。
権力迎合的な“正論派言論人”
自公連立が仮に選挙を目的とするものだったとしたならば、森田氏がいうとおり自民党と公明党は“合同すべき”なのである。それが正論である。私は自民党や公明党の卑しい根性を最初から知っているので、自公“合体”体制と呼んでいるのである。“正論”で思い出したが、『産経新聞』の「正論」などで気を吐いている“正論派”言論人がこういう正論をいわないことをハッキリと指摘しておきたい。わが国の右翼反動の特質のひとつは、権力迎合的であることである。創価学会・公明党は、自公“合体”体制下では権力の一部なのである。権力の一部を批判することなどわが国の右翼反動には最初からできないのである。いわゆる“正論派言論人”を私が信用できないのは、こういう点からである。
“正論派言論人”の中にはそれなりの知識・経験をもっている人もいるようだが、政治的にはこの一事をもってその本質が窺えるのである。権力の批判ができない言論人など言論人に値しない、と私は看做している。政治的評論は、その資質・見識が厳しく問われるものなのである。政治というものの厳しさである。
無思想・無内容なドタバタ政変劇
本稿は安倍首相の無責任極まる辞任から馬鹿馬鹿しい福田内閣の誕生について書くようにいわれたのであるが、いきなり創価学会・公明党問題、自公“合体”体制の問題となってしまった。
この問題にかなり敏感な私にも気が付かなかったくらいであるから、自民党や公明党の国会議員が今回の一連のドタバタ劇の中で、森田氏が指摘するような自公連立の解消など思いつかなかったことは明らかであろう。ましてや福田赳夫元首相の息子・清話会(町村派のこと)のオーナーであることが“唯一のレゾン・デートル”である福田首相にそのような問題意識がさらさらになかったことは明らかである。
その証拠に公明党との政権協議は粛々と行われ、小泉改革の必然として実行された高齢者医療費の負担引き上げは据え置かれ、北側公明党幹事長は記者会見で「財政健全化は重要だが、それを錦の御旗(みはた)にすることはないのではないか」と語ったという。また公明党は9月20日の中央幹事会で、「改革は継続しつつ、負担増・格差の緩和など国民生活に重きを置いた方向に政策を修正することが必要」との路線変更を打ち出したという(いずれも『毎日新聞』9月21日付朝刊)。こうなるとますます自公連立というのは、分からなくなる。やはり政権にあり付きたいという浅ましい野合ということなのである。だから、私は自公“合体”体制と呼ぶのである。福田首相は自公“合体”政権の新しいトップなのである。自公“合体”体制が卑しくさもしいように、福田首相という政治家も卑しく浅ましい人物だと私は思っている。
反民主的な政治家と自白した福田首相
私が福田首相について批判しなければならないことの第一は、福田康夫という政治家は“反民主的な政治家”だということである。今回の一連の政治劇は、参議院選挙という国政選挙で国民から決定的な不信任を突きつけられたにもかかわらず、これを公然と無視しようとした安倍首相の否定にあった筈である。今回の新しい首相がそのことを明確にしない限り、わが国の民主主義は正常に機能していないといわれても仕方がないことになる。参議院選挙は政権選択の選挙ではないなどという屁理屈を口にする政治家は、まやかしの政治的言辞を弄する者である。
参議院通常選挙は、600億円もの国費を使い、6000万人もの有権者が投票所に足を運んで行う国民の審判である。そのテーマは、国政を信任するかどうかなのである。安倍内閣は、国民から不信任とされたのである。その安倍首相が国民の審判を無視して組閣した安倍改造内閣をそのまま“居抜き”で引き継ぐなどということは、多少まともな政治的感覚の持ち主ならば考えられないことである。
福田首相としては、意地でも全閣僚を取り替えなければならないのである。それが安倍内閣の否定である。しかし、福田首相はほとんどの閣僚を再任した。“居抜き内閣”といわれる所以である。この意味するところは、福田首相が“反民主的な政治家”と自白したことなのである。
“天の声も変な声”といったDNAを引く資質
かつて福田赳夫首相が大平正芳氏に自民党総裁選で敗れたとき、“天の声にも、ときには変な声もある”といったことを思い出してもらいたい。選挙の結果を嘲笑う思想である。父君を誰よりも尊敬している福田首相の政治家の本性が窺えるではないか。今後福田首相がどんなに野党との協調路線をとったとしても、福田首相の本性が“反民主的な政治家”だということは、片時も忘れてはならない。
また福田首相はもっとも悪しき意味における“派閥政治家”である。派閥政治とは、党よりも国家よりもましてや国民の利益よりも派閥の利益を上におく政治のことである。こんな派閥政治が否定されなければならないことはいうまでもない。福田首相とは、骨の髄までこの派閥政治が沁みこんでいるのである。
このこと以外にも、“言わねばならぬ”ことは沢山あるが、まともに論評すべき人物でも政変劇でもないからこのくらいにしておこう。