俗悪な政治番組(その3)
07年01月24日
No.315
(永田町徒然草No.313からつづく)中曽根大勲位の後、どんな番組だったのか見ていない。NHKのあまりの馬鹿らしさに腹が立つより悲しくなってそれ以上見る気になれなかったのだろう。ベッドの中でまたウトウトしたようである。いま当日の新聞で確認すると、「どうなる給料・働き方 論客が対決」とある。ホワイトカラー・エグゼンプションか、正規・非正規雇用の問題だろう。けっこうなことではないか。中曽根大勲位の時代がかった説教よりこちらの方がはるかにたいせつである。しかし、それにしてもこれもズレている。
そもそもタイミングがおかしい。ホワイトカラー・エグゼンプションについては、安倍首相が今国会で法案を提出することを断念したとすでに先週発言している。もしこの問題を取り上げるならば、先週の『日曜討論』のテーマでなければならない。すでに来るべき通常国会に提出することを断念した問題を取り上げてやるのは、政府や自公与党に弁明の機会をわざわざ与えてやるようなものだ。穿った見方をすれば、参議院選挙の大きな争点にもなりかねなかった問題に弁明とエキスキューズの場を提供してあげたとも考えられる。政治番組の公平性とは、このくらい細かい神経を使わなければならないことなのだ。
「給料や働き方」について、いかなる論客が出てどのような議論がなされたのかは夢の中である。きっとこれもまた問題点があるのだろうがあえてビデオを取り寄せてまで論じる必要はあるまい。中曽根大勲位のコーナーを設けただけで『日曜討論』の問題性は十分だろう。当日のテーマは「来るべき国会にどう臨むか 各党論客が対決」という類のものが適当だったのだろう。それは来週やるつもりだという反論が返ってくるだろうが、だからといって大勲位を出演させたことを正当化する理由にはならない。
10時ちょっと過ぎに目が覚めた。急いで『サンデープロジェクト』にチャンネルをあわせた。そうしたら渡辺美智雄ジュニアの顔が大きく出ていた。そういえば、この人はわずか20日ちょっと前に大臣に任命されたのだった。しかしその頃を除きあまり存在感がなかった。栴檀(せんだん)は双葉より芳しという。もし彼に渡辺美智雄氏のようなセンスと度胸があれば、これまでにニュースなどで取り上げられるようなことを一つや二つはやっていただろう。そうしたものがないから、もう忘れかけられているのだ。渡辺美智雄ジュニアは、「愛の構造改革」などという聞きなれないフレーズを使いながら愛嬌を振りまいていた。テレビ欄には「渡辺喜美大臣が激白 改革の秘密」などと大げさに書いてあるが、何のことはない、これも政府の広報番組以上の何ものではなかった。
最初に何をやっていたのか不明であるが、渡辺ジュニアの出演した政府広報番組が終ったのは、10時26分だった。それから11時6分まで「本年初の与野党大激論 政治と金、安倍政権」であった。自民党は茂木筆頭副幹事長、公明党は高木広報局長、民主党は前原前代表、共産党は小池政策委員長、社民党は福島党首の各氏を出演させていた。テレビ局がこのような討論番組を企画する場合、普通各党の同じような性格の役職者をそろえることになっている。そうしないと各党の発言が責任のないものになるからである。今回はある特定のテーマではなく政局全般について討論するというものであったから、『サンプロ』としては書記長クラスをそろえたかったのであろう。最終的に誰を出演させるかは各党が決める。それは仕方ないのだが、それにしても肩書きがちょっとバラバラ過ぎる。
もうひとつの問題は、与党として自民党と公明党を常に同席させるということが普通になったことである。選挙などの場合は、与党といっても自民党も公明党もそれぞれ戦わなければならないので二つの党が出ることは差し支えない。しかし政府のある政策を議論する場合には、与党は一党だけ出せばいいと私は考えている。かつては政府自民党という言葉があったくらい、政府=自民党であった。こういう番組に自民党が出演する場合、自民党は文字通り政府の代弁者として出演していた。政府と自民党とを使い分けなかったし、またそれは許されなかった。だから自民党は政府の事実上の代弁者として出演していた。
自公保連立政権のころから、このような番組で与党の各党を出演させることが常態となった。与党の各党が政府が決定した政策についてそれぞれ発言する。私の党は反対なんだけれども与党としてそのように決定されたなんてこともままある。実に紛らわしい。公明党が反対であったとしても、政府の政策として決定されればそれが国民を拘束するのである。エクスキューズは意味がない。そうであるならば、政府の政策を俎上にのせて議論する場合は、その政策を決定した政府の責任者を出演させるべきだ。大臣が出れなくとも副大臣とか政務官がおおぜいいるのだから、大丈夫であろう。そうしないと政策に対する責任の所在が不明瞭になる。議院内閣制というのは、良いことでも悪いことでも政府の政策や行動に与党が責任をもつという制度なのだ。
テーマがテーマだけに、40分間の議論を紹介できないし、また報告するほどの質の高いものでもなかった。ただひとつだけ気になることがあった。田原氏が40分間に社民党の福島党首を指名して発言させなかったことである。確か一度もなかったような気がする。率直にいってこういう番組における福島氏の発言の仕方も上手くないが、いやしくも党首として出演した福島氏に対してこれは礼を失している。それは社民党の支持者に対して礼を失していることになるのである。これは政治的公平という観点から明らかに責められても仕方ない。
この大激論(?)が終った後に放送された「総力取材 イラン本当の姿にきっと驚きます」は、それなりに見応えがあった。『サンプロ』もこういう番組にした方がいいだろう。少なくとも田原聡一朗の激論番組では、もう本当の激論が展開されることはなくなった。『サンプロ』が政治番組として一応の役割を果たしたことを私は否定する者ではないが、「田原聡一朗の激論」はすでに賞味期限をかなり過ぎたような気がする。智者は己を知らなければならない。智者の友人は、智者に忠告することも必要である。私は黒岩氏も田原氏も昔からそれなりに知っているが、友人というほどではない。ここで述べることによりその義務は果たしたつもりである。
俗悪な政治番組のどこが「俗悪」なのか、それをいちいち指摘し説明するのはこのように決して楽しくもないし、生産的な仕事でもない。私のこの指摘は、現に俗悪な政治番組を作っている製作者側に届かないであろうし、仮に彼らがこれを見ても自省するとも思えない。わが国のマスコミの堕落はすでにここまで来てしまったのだ。しかし、俗悪な政治番組を見せられている人々に、「ここがおかしいと判断する観点」を明らかにすることは無駄ではないと考えるから、今後とも具体例を挙げながら気が付いたときにその都度述べることとする。マスコミは権力を批判しなければならない。権力を批判しようとしないマスコミもまた批判されなければならない。なぜならばマスコミもまたひとつの権力であるからである。
それでは、また。