総理大臣の椅子が近づくとき・・・
08年09月18日
No.934
今回の自民党総裁選は、どう考えても時代錯誤だ。これまでの自民党総裁選は、どうであれ、わが国の首相を選ぶ選挙だった。だから、メディアが報道することにそれなりの理由があった。しかし、今回選出される総裁は、確かに総理大臣になることはなれるが、ただそれだけのことでないのか。総裁選で盛り上げるだけ盛り上げておいて、自民党の支持率が上がったら冒頭解散をする魂胆だという。多くの国民が“馬鹿にするな”と思いはじめてきたようだ。何事もやり過ぎるとこうなる。
福田首相は無い知恵を絞って、こうするのが自民党のためにいちばん良いと考えたのだろう。これを受けて自公“合体”体制の幹部たちも同じようなシナリオを考えたのだろう。ここには、この国をどうするという考えなど微塵もない。政治にとっていちばん大切なことは、この国をどうするか・国民生活をどうするかである。自民党や公明党がどうなろうが、国民にはどうでもよいことなのだ。政治は国民のためにあるのだ。その必死さがなければ、政治を動かすことなどできない。手練手管は駄目なのだ。そんなものは通用しない。
私が国会議員に当選した頃(昭和54年)から、政治にもいまの言葉でいうパフォーマンスが求められるようになった。少なくともパフォーマンスは効果があった。しかし、政治の世界にはパフォーマンスという言葉などなかった。そんなことを口にする政治家は軽蔑された。そう、真のパフォーマンスはパフォーマンスの臭いがするようでは駄目なのだ。パフォーマンスが好きな政治家が多くなってきたが、よほど有能な政治家でなければパフォーマンスで成功を収めることなど無理なのである。若い政治家に言いたい。パフォーマンスなどあまり拘(こだわ)らないことだ。真面目が一番なのである。
今回の自民党総裁選というパフォーマンスに、麻生氏は絡んでいるような気がしてならない。この総裁選の中で、麻生氏は与えられた役割を“嬉々として”演じている。自分が幹事長を務めている時に、2度も首相・総裁が政権を投げ出したことに危機感を感じていないようである。安倍首相と福田首相が政権を投げ出したのは、偶然ではない。それなりの理由があるのだ。麻生氏はそのことに気が付いていないのであろう。自分が総理大臣になれればそれでよいのだ。それじゃ、安倍首相や福田首相と同じじゃないか。
そう、安倍首相や福田首相と同じなのである。吉田首相の孫である俺が総理大臣をやることに文句でもあるのか、が本音なのであろう。しかし、総理大臣の職責はそんなに軽いものではない。自分に総理大臣の椅子が近づいた時、大平正芳氏は怖くなったという。自分に日本国の命運と国民の生活を背負うだけの力が本当にあるのだろうかと恐れ慄(おのの)かざるを得なかったというのである。総理大臣の責任は重く大きい。少なくとも、はしゃいでいる場合ではないのだ。
民主党を中心とする野党も他山の石とすべきである。現在の政治状況・経済状況・社会情勢の中で政権を担当することは大変なことなのである。私に任せてもらえれば大丈夫だ、などと言える政治家はほとんどいない筈である。強い使命感に燃え滾(たぎ)る政治家だけが、この難局に立ち向かう資格がある。その強い使命感が国民に伝わってきたとき、国民はその政治家に己の命運を托すであろう。政治は、真剣勝負なのだ。危機の中で、政治家も国民も試されているのだ。
それでは、また。