自公“合体”政権批判(2ーその1)
07年05月04日
No.415
連休真っ只中である。天候にも比較的恵まれている。だが私は家に篭って締切りの迫った原稿書きに励んでいる。フランスの大統領選挙は、佳境に入っている。サルコジ候補がロワイヤル候補に4~6パーセントくらいリードしているという。わが国だったらだいたいサルコジ候補の勝ちと予測するのがプロの見方であろうが、果たしてフランスではどうなるのだろう。最後まで目が離せない。少し遅れてしまったが、『月刊日本』5月号に掲載された「自公“合体”政権批判(2)」をupdateする。ちょっと長いので2回に分ける(『月刊日本』4月号は永田町徒然草No.374および375)。……
自公“合体”政権批判(2)
野合ではなかった自社さ三党の連立政権
にわか“改革者” の跳梁跋扈
平成5年6月衆議院は解散された。私は当時落選中の身だった。長い間待たされていた。前回の総選挙から3年4ヶ月も絶っていた。平成2年の総選挙は消費税選挙だった。今度は政治改革選挙だった。どちらも自民党公認候補の私には有利なテーマではなかった。しかし、私はこの選挙には自信があった。政治改革がテーマならば、政治改革のためにいちばん努力してきたのは自分であるという自負もあったし、このことを新潟4区(旧選挙区、現在はそのまま新潟6区となっている)の有権者は必ず分ってくれると信じていた。
この総選挙にいたるまで、長い間国民は選挙制度改革の議論につき合わされてきた。衆議院の選挙制度について、ありとあらゆる制度が議論された。そして選挙制度を変えないことには、政治改革は一歩も進まないというムードが世の中に蔓延していた。選挙制度の変更を主張する者は改革派、選挙制度の変更を主張しない者は“守旧派”とみなされた。少なくともマスコミはこの論調で押しまくった。
政界には、“にわか改革派”が跋扈していた。選挙制度の改革を口にする者は、改革派であった。それは、昭和43年から数年間、わが国の大学に跋扈した「全共闘」と同じであった。私は大学に入学した直後から学生運動に身をおいたが、圧倒的多数はいわゆる無関心層であった。私たちがどんなに運動に参加することを呼びかけても馬耳東風であった。まったく興味を示さなかった。ところが、これまで学生運動に無関心だった者がある日突然目覚めるのである。そして運動の先頭に立って、革命者然として叫ぶのである。ゲバ棒をもって闘争するのである。ゲバ棒で革命ができるのなら世話はない。
“にわか改革派”がどこかおかしいということを、賢明な有権者はすでに見抜いていた。私は選挙制度改革などということを少しも口にしなかったが、7万7,000票を獲得して最高点で当選した。私が過去取ったこともない高得票であった。
“革命”的状況の出現
選挙の最中から、自民党が単独で過半数を確保できないことは、専門家の中では十分に予想できた。しかし、自民党政権が崩壊すると考える人はそんなに多くなかったのではないかと私は思っている。私自身も、選挙後は自民党といくつかの政党が一緒になって政権を作ればいいと思っていた。その候補としての政党は、日本新党であり、新党さきがけであり、新生党であり、場合によっては民社党でもいいと私は思っていた。
自民党という政党を良く知っている者としては、一緒に政権を担当する政党がこれらの党であれば、政権運営にはほとんど支障はないという確信があった。だから体制崩壊という危機感などほとんど私にはなかった。多くの国民もそう考えていたのではないだろうか。自民党政権の崩壊となれば、わが国においてはそれはひとつの“革命”である。しかし、平成5年の総選挙を“革命”を引き起こす選挙だったと主張する者も少なかったし、そのように記憶している者もほとんどいないのではないかと思う。
“革命”は、選挙後におこったのである。細川護煕氏を首相とする非自民連立政権ができたのである。自民党に過半数を与えなかったのは、確かに国民の選択であった。しかし、選挙直前に50名近くの現職議員に離党されたのでは、自民党が過半数を獲得できなかったとしてもやむを得ない。
国民も新生党や新党さきがけや日本新党の候補者を自民党と完全に敵対する候補者と考えていなかったのではないだろうか。彼らは選挙制度については変更を主張していたために“改革者”とみなされていたが、いうならばそれだけのことではないか。自民党と違うのはそのことだけであり、他の問題については自民党と同根という経緯があったし、そこからくる安心感も選挙ではプラスした。その証拠に革命的状況を作りだした筈のこの選挙において、これまで自民党と対峙してきた野党第一党の社会党は大幅に議席を減らしている。自民党と激しく対峙してきた野党第一党が大幅に議席を減らす“革命”的選挙というものはないだろう。
総選挙の結果自民党は過半数に30議席ほど達せず、単独で政権を組織することはできなくなった。逆にいうと野党が結束すれば非自民連立政権を組織することが可能となったのである。自民党政権を倒すことは、昭和30年から自民党単独政権しかなかったわが国では、明らかにひとつの“革命”だった。
突如として“革命”的状況が生まれたのである。 ここで野党が結束して非自民連立政権を樹立しなければ、野党はその存在価値を問われることになる。また評判の悪い守旧派の自民党と組んでも何のメリットもなかった。非自民連立政権を作ることは、野党各党の存立にも関わる一大任務となったのである。
焦った細川首相と小沢一郎氏
このような“革命”的状況の中で、細川内閣は生まれるべくして生まれたのである。7党8会派は共同して細川内閣を作った。細川内閣を作る上で、新生党の小沢一郎氏が大きな役割を果たしたことは確かであろうが、過大評価することはできないのではなかろうか。あの状況の中では、非自民連立政権に参加しない度胸がある政党は共産党くらいしかなかったであろう。国民は自民党政権を打倒したかったのである。
7党8会派の連立に関する協定書は、あることはある。しかし、それにそれほど意味があるとは思えない。要するに非自民政権を作ることが目的であり、それを否定するものでなければ連立の障碍に基本的にはならなかったのである。そして政治的にみても非自民連立政権は、それなりに大きな意味をもっていた。国民もそのことをシッカリと理解し、細川内閣を圧倒的に支持した。
細川非自民連立政権の目的と存在価値は、それ自体にあった。だから細川首相も小沢氏もあまり焦る必要はなかったのかもしれない。しかし、両人とも自民党出身者であったために、自民党への対抗心が強すぎたのかもしれない。自民党政権に負けない政権を作ろうとしたのである。そうすると政策的に消化できないものが、7党8会派の間に生じてしまうのである。
前回書いたように、私は細川内閣に対峙しなければならない立場にあった。世論もマスコミも、細川内閣を圧倒的に支持していた。自民党はすでに崩壊過程に入っていた。自民党という政党は、政権党であるが故にひとつの政党にまとまっていただけなのである。その自民党から政権をとってしまえば、自民党はもたないのである。自民党の幹事長までやった小沢氏はなぜこんな単純なことに気が付かなかったのだろうか。
しかも小沢氏が7党8会派の政策協定をギリギリ詰めだしたのは、小選挙区制の導入を決定した政治改革法案が成立した後であった。小選挙区制の下における次の選挙を考えれば、野党が結束すれば自民党に勝つことはほとんど間違いないところであった。
このことは、逆の立場に立てばよく分る。平成7年10月私は、自民党が自社さ政権で政権に復帰した後に次の選挙を闘う総務局長に就任した。そのような状況でも自民党が総選挙で勝利することなどなかなか展望が開けなかった。もし、自民党が野党のままで総選挙を闘わなければならなかったとしたらそれは絶望的であったであろう。
政権欲は連立の重要なモメント
羽田連立政権の後に誕生した村山自社さ連立政権の場合は、細川非自民連立政権を作るほど単純でも簡単でもなかった。本格的な連立政権の難しさは、これを分析することによって明らかになる。
羽田内閣の成立直後、統一会派「改新」の結成に端を発して社会党と新党さきがけは非自民連立から事実上離脱することになった。羽田内閣は、組閣のその日から少数与党内閣となったのである。だからこれを倒すことは簡単であるが、これに代わる新しい連立内閣を樹立することは別問題である。確りとした連立の基盤がなければ、それは樹立できない。
自民党が政権を手に入れたいと望んでいたことは事実であった。しかし、自民党と連立を組もうなどという政党は正直にいって最初はいなかった。最大の難関は、連立を離脱した社会党や新党さきがけには、“政権に対する執着”というものがあまりなかった。連立を可能ならしめるモメントとして政権に対する執着というものは非常に重要なことなのである。
政権に対する執着がない政党なんてあるのかと疑問に思う方も多いだろうが、それがけっこうあるのである。政権党というのは、いいことばかりではないのである。政権党である故の苦労もけっこう多いからである。政権に対する執着があるかないかは、その政党の支持者によるのではないか。
社会党や共産党の支持者は、自分の支持する政党が政権党になることを必ずしも望んでいないのであるから、その政党の政治家も政権に対する執着というものがあまり生まれないのである。一方、自民党の支持者は、政権党であるが故に自民党を支持しているのである。政権やその役職に執着しない政治家などとんでもないことなのである。だから自民党には政権に対する異常なまでの執着があるのである。下部構造(支持者)が上部構造(政党のあり方)を既定するということか。
<づづく>
それでは、また明日。