現象と本質
07年04月20日
No.401
昨日もヴァージニア工科大学の乱射事件と長崎市長銃殺事件でニュースはほとんど埋められた。アメリカの事件については、犯人がNBCに送り付けたビデオなどが新たに出てきた。それを何度も見せられた。犯人の韓国時代の住まいまで報道されていた。長崎の事件では、市民の悲しみと犯人の動機や補充立候補者などが報道された。それらは大切なことである。だが、それらは現象であり、事件の本質とはいえないであろう。
アメリカの事件についていえば、犯人の動機や背景を分析することは大切なことだが、いくら分析をしてみても犯人の特殊性を浮かび上がらせるだけであろう。そのような人的特殊性をいくら明らかにしても、そのような特殊性をもっている人間を予防拘禁することなどということにはならないであろう。このような特殊な人間が一定の確率で存在することは今後とも変わらないであろうから、現象であり本質ではない。ヴァージニア工科大学のような事件が起きた最大の原因は、やはりアメリカの銃社会にある。これが本質である。
長崎市長銃殺事件の本質は、暴力団の存在と暴力団が相当程度銃を保有していることであろう。問題のこの本質が分れば、対策はきわめて具体的なものとなろう。今回のことで大切なことは、このタブーに具体的に取り込むことである。警察庁は、この問題から逃げてはいけないし、世論もこのことを支持することが大切なのである。選挙期間中の警備の強化だとか、補充立候補の期間を短縮するなどという法改正をここで持ち出すのは、論点がズレていると私は思う。
私が両事件に関して他の人とかなり違った見方をしているのは、私の以下に述べるような体験に基づくものである。私は学生時代の最後に、東大紛争が起きた。昭和43年の秋から翌年の初めにかけてである。大学内は、一種の“革命的状況”におかれた。そのような中で、私は2回傷つけられた。ひとつは学内でデモをしているとき、“武装”していた全共闘といわれるグループから大きな石を額にぶっつけられて、病院に担ぎ込まれた。額は切れて、血が噴出した。その傷跡はいまでも残っている。もうひとつは、学内を歩いているときに武装していた全共闘に不意打ちされた。ゲバ棒で滅多打ちにされた。私は頭だけを手で守った。彼らが立ち去った後、折れた数本のゲバ棒が残っていたが大事にはいたらなかった(もちろん、1週間くらいは身体はひどく痛かったが…)。
平成8年と平成12年の総選挙および平成13年の参議院選挙で、私は創価学会・公明党グループと正面から激突した。メールや掲示板などには明らかに狂信的で異常な言動が認められた。私は身の危険を想定せざるを得かかった。しかし、私はいずれも警察に警備などを頼むことはしなかった。民間の警備会社に頼んだ。かなりの費用がかかったが多くの支援者の応援を受ける者として、狂信的なグループから身を守ることは候補者の義務だと私は考えた。私の警備を実際にしてくれた人に聴いたのであるが、緊迫した状況が何度もあったという。「選挙期間中の警備の強化が必要だ」などとのたまっている御仁は、こういう経験があるのだろうか。
創価学会・公明党の反対者に対する攻撃は、目に余るものがある。彼らは、批判者を抹殺しようとする。自民党は、これをみてみない振りをしている。こういう抹殺体質を放置している者が、民主主義に対する攻撃であるなどといっても私は信じない。いまわが国には、批判者を抹殺する体質が普通のこととして罷り通っていることを忘れてはならない。この抹殺体質と長崎市長銃殺事件は、関係ないのだろうか。私にはどうしてもそうは思えないのである。郵政民営化の国民投票ということで詐取した3分の2を超える巨大議席で、次から次に反対意見を潰していくのも、ひとつの抹殺体質ではないのか。4月22日の一票は、この抹殺体質と対決するものでなければならないと思う。
それでは、また明日。