野党共闘を成功させる基本は何か。
15年10月10日
No.1786
次の国政選挙において、自公“合体”政権と対峙する野党が協力して戦えば、その選挙で自公“合体”政権に勝てるか ── 今日はこの問題について、私の考えを述べてみたいと思う。まず、結論から述べよう。野党が本気で協力して闘えば、「野党は必ず勝てる」ということである。これは実に簡単なのだが、その簡単なことが出来ないから、自嘲を含めて、“所詮は野党”などと言われてきたのである。
最も直近に想定される来年の参議院通常選挙において、野党は自公“合体”政権に勝てるか。私は、あまり楽観していない。“野党が本気で協力して闘う”という態勢が、まだでき上がっていないからである。いまはできあがっていないが、その態勢ができあがる可能性があるかと問われれば、「それは微妙である」と言わざるを得ない。何故なのだろうか。
問題は、野党の本気度なのである。選挙に臨む者は、誰だって勝ちたいと願っているだろうと、多くの国民は思っている。ところが、必ずしもそうではない。それが、長い間、わが国の国政選挙に携わってきた私の率直な見方なのである。野党の本気度とは、いったい何か。私にいわせれば、「本気で、自公“合体”政権を敗北させなければならない」と思っているかどうなのである。言い方の違いに過ぎないと思えるかもしれないが、この違いが、実は大きいのである。
そもそも「生まれも育ちも違う野党が、なぜ協力し合って闘うというのか」という原点に立ち返って考えれば、その理由は、極めて簡単であろう。それは、多くの国民の思いに反して、自公“合体”政権が安保関連法案をあのような形で可決成立させたからである。国民がその思いを達成するには、次の国政選挙から、自公“合体”政権を敗北させていかなければならないからでもある。
ところで、安保関連法案が可決成立された頃の多くの国民の思いは、いったい何だったのであろうか。安保関連法案に対する私の考えは、この永田町徒然草で述べてきた。しかし、それは私の考えに過ぎない。なぜ、多くの人々があのように反対しているのか。私はそれが知りたくて、何度も何度も、反対行動の現場に行ったのである。「その思いとは、これだ」と一言でいう自信は、私にまだない。たぶん、誰も一言では言えないのではないかと、私は思っている。
この問題が、実はいちばん大事なのであるが、それは、これから始まる運動が示してくれる。問題の解決は、いつも現場にあるからだ。次の国政選挙から、自公“合体”政権を敗北に追い込んでいく運動が盛り上がっていくとしたならば、それは「憲法9条に違反する安保関連法案を、あのような形で可決成立した自公“合体”政権の暴走を止める。そして、安保関連法を廃止する」ということになると思う。いずれにせよ、あの頃に多くの国民が抱いた思いは、尋常ならざるものであったと、私は考えている。
尋常ならざる思いをもって、反対行動に集まってくる多くの人々を見て、“鈍感な”野党も、これ尋常ならざる事態が起こっていると思い始めたのであろう。これを、やはり“鈍感な”安倍政権がどのように受け止めたか、私は知らない。その中身にはいろいろなものがあるが、多くの国民は安倍政権に辟易としているというのが、実態なのである。ところが、この安倍政権に待ったをかけて呉れる政党がないというのが、多くの国民の率直な気持ちなのである。
これは、安保関連法案が持ち上がってからの話ではない。以前から実はそうだったのである。今回の安保関連法案が「安倍首相・安倍政権・自公“合体”政権は嫌いだけれど、これに代わって自分の一票を入れる政党がない」という絶望的状況を何とかしなければならないと、野党が気付いたとしたならば、国民は、失ったもの以上のものを手にすることになる。
野党共闘について、幸いにも動きが出てきた。しかし、多くの国民の期待に反し、そのテンポは緩い。いったい何を考えているのだと、多くの国民は思っている。多くの国民は、何も完璧な野党など期待していないし、そんなものを作る能力があるとも思っていない。「うん。これならば自分の一票を入れても良い」というものを作れば、それで良いのだ。
これからの戦いを進める上で、いちばん大事なことは何であろうか。それは、「一利を興すは、一害を除くに若かず」という、耶律楚材の言葉ではないだろうか。この言葉の意味は、永田町徒然草No.270「興一利不若除一害」に譲るとして、多くの国民が除いて欲しいと願っている一害は、紛れもなく安倍首相その人である。安倍首相を除いた後のことは、その時に考えれば良いのだ。現実の政治とは、そういうものである。
今日は、このくらいにしておこう。それでは、また。