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天皇制の存続と国民主権をめぐる諸問題

13年06月14日

No.1581

国民主権に関する規定は…

本講座も8回となった。テーマは、日本国憲法の三大原則である国民主権にはいる。国民主権についていまさら論ずる必要はないように思う人は多いと思うが、実はこのテーマも憲法制定過程では大きな問題があった。わが国の現在の政治の問題点は、そこに実は遠因があるのではないかという気がしてならないのである。

昭和憲法には、直截かつ明快に国民主権を規定した条文はない。国民主権については、憲法の2ヶ所に次のように規定している。

「日本国民は、正当に選挙された国会における代表者を通じて行動し、われらとわれらの子孫のために、諸国民との協和による成果と、わが国全土にわたつて自由のもたらす恵沢を確保し、政府の行為によつて再び戦争の惨禍が起こることのないやうにすることを決意し、ここに主権が国民に存することを宣言し、この憲法を確定する。」(前文第1項)>

「天皇は、日本国の象徴であり日本国民統合の象徴であつて、この地位は、主権の存する日本国民の総意に基く。」(第1条)

現在ならば国民主権はごく普通のことであり、わざわざ条文を設けてまで規定する必要はないかもしれないが、天皇主権の憲法を国民主権の憲法に変更するのであるから本当は直截に規定する条文があった方が良かった、と考えるのは私だけではないであろう。

こうなったのには、実は深い理由があるのである。そもそも天皇主権の憲法(明治憲法)の改正手続きで、国民主権の憲法(昭和憲法)を制定することは可能なのかという憲法上の論争がある。逆にいうと昭和憲法の改正手続きで天皇主権の憲法にすることは可能なのかという風に考えると、この論争の意味が理解できると思う。天皇主権を国民主権に変更することは、明治憲法の基本的な要素の否定であり、明治憲法の改正手続ではできないという憲法上の論争があったのである。

国民主権に対する政府の躊躇

もうひとつは、もっと現実的な問題であった。それは天皇主権を国民主権に変えることに当時のわが国の支配層に躊躇(ためら)いがあったからである。ポツダム宣言の受諾にあたり、わが国の政府がいちばん関心をもったのは“国体の護持"だったことは前に述べた。

ポツダム宣言10項には「日本国政府は日本国国民の間における民主主義的傾向の復活強化に対する一切の障碍を除去すべし。言論、宗教および思想の自由ならびに基本的人権の尊重は確立せらるべし」とある。

この文言だけからでは、国民主権ということは必ずしも読み取れない。だからポツダム宣言を受諾した政府部内に“国体は護持された"と主張する者が多くいたのである。国体の護持とは、端的にいえば天皇主権ということである。

松本丞治憲法問題担当相の下におかれた憲法問題調査会が作成した改正試案には、当然のこととして国民主権を規定した条文などなかった。しかし、連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)およびこの上位機関であった極東委員会(英・米・ソと中華民国、オランダ、オーストラリア、ニュージーランド、カナダ、フランス、フィリピン、インドの11カ国代表で構成された)では、天皇主権の否定は議論する必要もないほど当然視されていた。極東委員会の中には、天皇を戦争責任者として処罰すべしと主張する国々もあった。

天皇制を残すことを決めていたマッカーサーは、日本政府がモタモタしていると天皇制の否定はもちろん天皇に対する戦争責任の追及も出てくると考え、いわゆるマッカーサー草案を政府に提示して憲法問題を早く決着するように迫った。

問題のマッカーサー草案の原文は、

The Emperor shall be the symbol of the State and of the Unity of the People, deriving his position from the sovereign will of the People, and from no other source.

であったが、政府は the overeign will of the People を「国民の至高の意思」と訳すなどして国民主権を直截に認めることになおも抵抗したのである。

革命的状況における新憲法の制定

冒頭に示したような条文になったのは、GHQとわが国の心ある人々の努力によってはじめてこのようになったのである。主権が天皇にあれば、国民には主権はない。国民に主権があれば、天皇には主権はないことになる。所有権には共有はあるが、主権の共有などということは、憲法学上はあり得ないのである。

私はこのような動きや混乱を故なしとはしないのである。基本的人権のところで述べたように、明治憲法下では“思想の自由"が認められていなかったのである。

「大日本帝国ハ万世一系ノ天皇之ヲ統治ス」(明治憲法第1条)「天皇ハ神聖ニシテ侵スヘカラス」(同第3条)「天皇ハ国ノ元首ニシテ統治権を総攬」(同第4条)を疑うことは許されなかったばかりか、これを疑うような言動は治安維持法などで最高刑死刑で徹底的に弾圧された。 社会主義思想だけでなく、当時の先進国でごく普通のことであった国民主権でさえ、徹底的に弾圧されたのである。太平洋戦争に突入した昭和10年代後半から狂信的ファッシズム体制の下で弾圧は行われた。このような状況の下では、国民が国民主権という発想をもつことができなかったとしてもそれは仕方ないのではないだろうか。

しかし、GHQの占領下、事態は“革命的"に進行していった。1946年(昭和21年)4月10日、女性にも選挙権が与えられた衆議院議員総選挙が実施された。そしてその総選挙で選出された帝国議会衆議院は、実質的な憲法制定議会となった。当時まだ帝国議会には貴族院もあったし、枢密院もあった。しかし、衆議院を可決した憲法を貴族院や枢密院が阻止することは政治的にできなかったであろうし、実際にそのような挙にはでなかった。

昭和憲法は同年11月3日公布され、翌年5月3日施行された。この一連の事態は憲法制定に関する革命的事態であった。昭和憲法はまったく新しい憲法の制定であり、手続き的には明治憲法との連続性はあるが、内容においては明治憲法との連続性はないとする憲法学者が多い。私もそのように考える。

政治の最大の課題は、秩序を作ること

以上は憲法論としての国民主権の制定に関する問題点であるが、政治論として国民主権にはどのような問題点があるのであろうか。

政治の最大の課題は、国家の秩序を作ることである。

「いかなる悪い政府も、無政府状態よりましである」という、イギリスのカムデン卿の有名な言葉がある。政治というものの本質をついている。このことは現在のイラクの混乱をみれば頷けるのではないか。すなわち、政治というのは、ひとつの秩序を作る人間の営みなのである。しかし、その秩序を作るということが実はいちばん困難なのである。被統治者の同意がなければ、平穏な秩序を作ることはできない。

国家としての秩序を作る責任は、主権者にある。明治憲法下では、その責任は天皇にあった。昭和憲法で主権者になった国民には、新しい憲法における新しい秩序を作るという責任が生じたのである。しかし、天皇制が存置されたために、国民はもっとも困難かつ重要なこの任務から解放されたのである。

日本国民統合の象徴としての地位の昭和天皇は、“国民を統合する"という任務に専念した。昭和天皇の戦後の行幸には、戦争を阻止し得ず、多くの国民を戦死させ、国を荒廃させたことに対し責任を果たそうとする悲壮な決意さえ感じられる。昭和天皇の存在とこうした活動は、主権者である国民の代表である政府がもっとも困難かつ重大な任務を果たしたように錯覚させることになった。

そのまま残った官僚制という秩序

それは新憲法に基づく新しい秩序を作ることをおろそかにすることになった。昭和憲法は、自由主義憲法である。昭和憲法が理想とする秩序は、自由主義的な秩序である。自由主義的な秩序は、国民の自由闊達な活動を認めつつそれが自然調和的な秩序を形成するという信念と寛容と辛抱によってはじめて作られる。

自由主義的思想が脆弱だったわが国で、このような自由主義的な秩序を作ることはそもそも非常に困難な課題であるのだが、天皇の存在と活動により“日本国民統合"という秩序が擬制された。そのために自由主義的な秩序を作るという命がけの任務が国民や政府に迫られることはなかった。

自由主義の政治思想は、“絶対者"を否定する。絶対者をもたない国や個人が自律することは、口でいうほど簡単ではない。しかし、近代自由主義国は、“絶対者"なしで自律かつ自立しているのだ。

それは絶対者ではないが、何らかの政治的的価値観を見出してはじめて可能なのである。自律かつ自立している近代自由主義国家には、何らかの政治的的価値観がある。わが国にそうしたものが感じられないのは、新しい憲法を作ったにもかかわらず主権者たる国民が憲法に基づく新しい秩序を作るという困難な作業をしてこなかったことに起因している、と私は考えている。

新しい秩序が形成されずに平穏な秩序が保たれるという場合、それはそれまでの秩序がそのまま存続することを意味する。天皇制は残ったが、その内実は明治憲法とはまったく異なるものであった。天皇の言動が憲法の規定との関係で問題になったことはなかった。天皇および天皇家は憲法を遵守してきた。そして天皇制は秩序を作るという意味では大きな役割を果たした。それは憲法が認め、期待していた役割であった。

私が問題にしたいのは、古い秩序としての官僚制である。官吏は天皇の官吏であった。古い秩序としての官僚制の頂点に君臨していたのは、天皇であった。天皇の役割が根本的に変わったにもかかわらず、わが国の官僚は古い官僚制にそのまま安住し、その権力と利権をそのまま温存し、これを行使した。

忠誠の対象を失った野放図な官僚組織

私は、昭和憲法が制定されて間もない昭和20年代の話をしているのではない。政治にとって最初にしてもっとも基本的な課題である秩序を作るという面からみると、以上述べたことはそのまま現在でもいえることではないかと思っているのである。確かに官僚たちの口調は丁寧になった。しかし、慇懃無礼とは彼らの言動をいうのである。本質は尊大なのである。

明治憲法下の官吏には、天皇に対して恥ずかしいようなことをできないという矜持があった。かつては忠誠の対象であり野放図な利権漁りを許容しなかった天皇は、現在では法律的には官僚を拘束するものではない。いまや官僚たちに忠誠を求める者も、拘束するものもなくなってしまったのだ。

官僚たちの上に立ち彼らを統率する者は、憲法では国民の代表たる総理大臣・国務大臣なのであるが、官僚たちは国務大臣などをほぼ完璧に懐柔している。官僚たちの野放図な地位利用と利権漁りは、いまや陰湿であり病的でさえある。わが国の官僚制は、自己批判する能力さえまったく失っている。

これは、国だけではない。地方自治体においても同じような問題がある。住民が直接選出する首長も就任すると程なく地方官僚によってほぼ完璧に懐柔されてしまう。住民はよほど有能でタフな首長を地方自治体のトップに送り込まなければ、地方行政を支配することもできない。

これは、もう憲法の問題ではなく、政治そのものの問題である。しかし、憲法は政治を抜きには語れない。憲法はその制定過程だけでなく、その憲法が存在している限り政治的な存在なのである。

* * *

憲法の個々の条文を根拠に、その条文の理想を実現しようという営みは非常に大切である。また憲法の条文を根拠とする政治的闘争は、有効でもある。“はじめに言葉ありき"なのである。憲法の一つひとつの言葉がもっている意味は極めて大きい。

わが国においても憲法の言葉を根拠としてさまざまな理想を求める闘争が行われてきた。わが国にはわが国なりの“権利のための闘争"があったのだ。しかし、官僚たちは国民の権利のための闘争に敵対してきた。というよりも、わが国の権利のための闘争の多くは、官僚支配に対するものであった。

わが国を現在支配している自公合体政権は、国民が“権利のための闘争"の武器としてかろうじてその役割を果たしてきた憲法の条文そのものを変えようとしているのだ。これまで憲法が保障してきた権利を抑圧してきたのは、自公合体政権でありそれと一体になった官僚組織だった。自公合体政権が憲法を変えた場合、どのような結果を招くことになるかは明らかであろう。

国民主権を“権利のための闘争"という面から考察すると、国民の代表として官僚を管理・統率する国務大臣や地方自治体の首長の選出や罷免に関する問題ということになる。それは選挙であり、政治闘争そのものの問題である。戦後民主主義の内実を問う問題である。

このことは、次回に論ずることとする。

* この小論は、月刊誌『リベラル市民』平成19年6月号に掲載されたものである。

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  • 13年06月14日 10時16分PM 掲載
  • 分類: 5.憲法問題

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