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戦後民主主義と基本的人権

13年05月31日

No.1576

私は、本論文の最初で次のように書いた。

「憲法は、いつも政治とともにある。憲法を論ずる時、私たちは憲法とからみながら動いてきた政治史に立ち返らざるを得ない。この小論は、戦後民主主義といわれるものの内実を検証することにもなろう。」

もちろんこれで間違いないのだが、戦後民主主義といわれる政治は日本の政治や社会のあり様を変えてきたがそれは表層的な部分でしかないような気がしてならないのである。わが国の社会や国民の生活そのものを本当に変えたのは、昭和憲法が国民に保障した基本的人権であったような気がする。憲法はそれ自体が強烈なイメージとメッセージを発する政治的なドキュメント(文書)だということを感じずにはいられない。憲法とはまさにそういうものなのである。
本稿において、私はわが国のあり様や国民の意識や生き方まで変えてしまった基本的人権のいくつかを例示しながらこのことを論証してみたいと思う。

生活の根本を変えた憲法24条

憲法第24条1項 婚姻は、両性の合意のみに基いて成立し、夫婦が同等の権利を有することを基本として、相互の協力により、維持されなければならない。
2項 配偶者の選択、財産権、相続、住居の選定、離婚並びに婚姻及び家族に関するその他の事項に関しては、法律は、個人の尊厳と両性の本質的平等に立脚して制定されなければならない。

この条文がわが国の家族のあり方、人間の生活の基本である家庭のあり方、ひいては人間の生き方まで大きく変えた。男女の平等は憲法14条でも規定されたが、それ以上の意味をこの条文はもっていた。明治憲法では男女の平等や婚姻に関する規定はなかった。それらは法律に委ねられ、これを律していたのが明治民法であった。

明治民法は家制度を規定した。家制度は一定の親族関係にある者を戸主と家族として一つの家に属させ、戸主に家の統率権限を与えていた。江戸時代に発達した武士階級の家父長制的な家族制度を基にしたものであった。戸主には婚姻に対する同意権や居所指定権などがあり、そのため自由な結婚や職業選択の自由などが極めて制限されることになった。また当時は子供の数も多く、分家にも戸主の同意が必要とされたので、大家族制となっていた。戸主を中心とする家制度は、天皇制を支える制度としての役割も果たしていた。

「婚姻は、両性の合意のみに基いて成立」という規定により、結婚の自由が初めて実現した。戸主の反対により、多くの愛し合う男女が結婚できないことは決して珍しいことではなかった。多くの悲劇もあった。

男女の肉体的差異は、厳然としてある。そこから生ずるいろいろな問題もある。「個人の尊厳と両性の本質的平等に立脚」して家族関係を築くことは、口でいうほど簡単ではない。しかし女性は男と違う強さを本質的にもっている。女性の努力によって、明治憲法下では考えられなかった新しい夫婦関係や親子関係が生まれたことは事実である。女性の社会参加も進んだ。それがまた新しい問題を生んでいることも否定できない。

男女同権という言葉は、戦後の社会や人間の生き方を大きく変えた。国民の半分を占める女性にとってそれが好ましいものであることは確かだと思う。しかし、その終着点には到達していないような気がする。世の男性諸君、女性はまだまだ強く、逞しくなりますぞ!

労働基本権の保障

憲法第27条1項 すべて国民は、勤労の権利を有し、義務を負ふ。
2項 賃金、就業時間、休息その他の勤労条件に関する基準は、法律でこれを定める。
3項 児童は、これを酷使してはならない。
第28条 勤労者の団結する権利及び団体交渉その他の団体行動をする権利は、これを保障する。

労働基本権と呼ばれる規定である。明治憲法にはこのような規定はなかった。明治憲法第29条の結社の自由で労働組合は認められていたが、これには「法律の範囲内において」という制限があった。しかし、わが国の労働運動の先駆者は、官憲と使用者の弾圧に屈することなく労働者の権利と福利を求めて闘ってきた。その歴史を私たちは忘れてはならない。

この憲法の規定を受けて、労働三法と呼ばれるものが制定された。労働基準法は、労働条件についての最低基準を定め、この法律を下回る労働条件は無効になり労働基準法が定める労働条件が適用されることとなった。主に労働契約・賃金・休暇・解雇・安全・女子や年少者について定められている。

労働組合法は、労働者と使用者が労働条件について対等の立場で交渉できるようにすることを目的とし、主に労働協約の締結・団体交渉権・労働組合を組織することを定めている。

労働関係調整法は、労働争議の予防・解決・労働関係の公正な調整のための法律で、労働争議の調停・仲裁のために労働委員会が斡旋などことを定めていた。また労働基本権に無理解な使用者の組合や組合員に対する差別を不当労働行為として排除し、健全な労使関係の構築に大きな役割を果たした。

総中流社会と格差社会

労働運動史家に語らせれば、戦後ある程度の規模の企業にほとんど設立された労働組合の運動は、多くの問題を抱えたということになろう。それは史家に譲る。

労働組合を設立したといっても戦争直後のわが国の経済基盤は戦争によってズタズタにされていた。経済の復興をなすことは 決して容易ではなかった。しかし朝鮮戦争特需により復興のキッカケを掴んだわが国の経済は、昭和30年(1955年)前後から成長路線にのった。労働組合は企業利益の配分に大きな役割を果たした。その結果、1億総中流といわれる豊かで平等な社会を作ったことは素直に評価して良いと私は思っている。

労働組合の結成は、単に経済闘争の面からだけでは語れない。社会党や共産党や民社党が進めた政治や社会や文化などの「革新運動」の組織的な担い手は、労働組合であった。労働組合は、政治的・社会的な存在としても大きな役割を果たした。しかし、そのことが健全な労働組合運動の発展を妨げる一因にもなった。

社会党支持の総評と民社党支持の同盟が一緒になって連合を結成したが、それによって問題のすべてが解決した訳ではない。組合員の政治離れと組合の組織率が極端に落ちている。自由な社会を築くためには、優れた逞しい自由主義政治家が必要なように、労働組合の健全で幅の広い運動を確保するためには、柔軟な発想と巧みな組織力をもつ労働組合運動家が必要なのだろう。

いまわが国の経済団体は、公然と憲法改正を叫んでいる。憲法改正を公然と叫ぶ政治家と一緒になって、現在の憲法体系と異なる国を作ろうとしている。彼らが狙っているものは、労働基本権の縮小であり、自由権の制限である。憲法改正を許せば、労働組合もおかしくなるし、労働組合がこれまで担ってきた革新運動=社会改革運動も必ずおかしくなる。憲法改正問題は、労働組合と労働者にとっても正念場なのである。

刑事法制の革命的改革

基本的人権がもっとも躍動するのは、刑事法制の分野である。国家の安寧と秩序を理由に個人の自由を奪おうとする権力から、国民を守るのが基本的人権である。刑法と刑事訴訟法を学ばなければ、基本的人権を真に理解することはできない。私がもっとも得意とし、また弁護士の使命を実感するのは、刑事弁護においてである。

第23条   日本臣民は法律に依るに非ずして逮捕監禁審問処罰を受くることなし 。
第24条   日本臣民は法律に定めたる裁判官の裁判を受くるの権を奪わるることなし。
第25条   日本臣民は法律に定めたる場合を除く外その許諾なくして住所に侵入せられ及捜索さるることなし。

明治憲法の刑事に関する人権の規定である。それなりのことは一応規定はされているが、条件となっている法律は絶対的権限をもっていた天皇が定めることができた。そして前号でみたように治安維持法をはじめとする人権規制法があり、かつ特高警察は取締りだけではなく事実上の裁判と処罰まで行っていた。従ってわが国の刑事に関する基本的人権は、ほとんどなかったといっても過言ではない。

連合軍総司令部の指令により、憲法改正以前にこれらの法律は失効させられ、特高警察も解体された。そして昭和憲法には10条に及んで刑事に関する基本的人権が規定され、これを受けて新しい刑事訴訟法が制定された。憲法および刑事訴訟法は、当時もっとも先進的といわれていたアメリカの人権に関する規定が多く採用された。

意味深長な証拠に関する規定

前記の「特高警察による事実上の裁判と処罰」においては証拠など不要であった。特高警察の胸三寸で有罪とされ、死刑にまで処せられた。特高警察による虐殺である。しかし通常の裁判においては証拠は重要とされたが、証拠に関する規定が緩ければ捜査段階において人権が侵されることは避けられないことである。証拠の捏造のために拷問は日常的に行われていた。

第38条   何人も、自己に不利益な供述を強要されない。
2   強制、拷問若しくは脅迫による自白又は不当に長く抑留若しくは拘禁された後の自白は、これを証拠とすることができない。
3   何人も、自己に不利益な唯一の証拠が本人の自白である場合には、有罪とされ、又は刑罰を科せられない。

憲法にこの規定が明記されたために、少なくとも物理的・肉体的な拷問が少なくなったことは事実である。それでも拷問によって自白を強要されたと訴える事案はかなりあった。現在でも告発されることがある。

「刑事被告人は、すべての証人に対して審問する機会を充分に与へられ、又、公費で自己のために強制的手続により証人を求める権利を有する。」

憲法第37条2項の規定である。この規定により被告人の反対尋問に晒されない証言は証拠能力がないことになった。伝聞証拠の排除の規定である。これによって捜査当局がでっち上げの書類を作っても被告人側で本気で争えば証拠とすることはできなくなった。証拠能力がないというのは、証拠として採用することがそもそも許されないということである。

憲法や刑事訴訟法は劇的に変わったが、警察や検察は古い考えから脱却することはなかなかできなかった。多くの冤罪事件が生まれたのはこのギャップからであった。多くの被告人が冤罪を訴えて長く苦しい法廷闘争を余儀なくされた。人権派弁護士と呼ばれる法律家が生まれ、大衆もこうした冤罪事件を支援した。

権利のための闘争

昭和憲法が新しく国民に保障した多くの基本的人権の中からわずか3例を挙げただけだが、国民は警察や行政の基本的人権を無視した行為に対して、果敢な闘争を始めた。そうした中からわが国の基本的人権の内実が形成されていった。そしてその戦いは、まだまだ続けられなければならない。

『権利のための闘争』を著したイェーリング(ドイツの法学者 1818年〜1892年)は、

「己の権利を明らかにすることは、すべての責任能力のある人間の自分自身にとっての義務である」

と述べている。わが国では、果たしてこのような雰囲気があるだろうか? 権力に対して基本的人権を名分に闘う者を、変わり者もしくは反体制派とみる風潮はないだろうか。

私はこの2年間に東京・渋谷で2回も職務質問を受けた。不当な職務質問であるから私は所持品の提示などを拒否したが、「やましい物を持っていないのならば、素直に警察に見せてやればいいじゃないですか。その方が簡単だし楽でしょう」という人がけっこう多い。自由な社会とは、国家権力からも本質的に自由な社会をいうのだということがなかなか理解されない。

基本的人権を尊重する国家権力などというものは、本来ありえないと考えた方が良い。不当な権力の行使に国民は毅然として闘わない限り、憲法がせっかく保障してくれた基本的人権も画餅に帰し、縮小されていくことを賢明なる国民は知らなければならない。

昭和憲法を押付けられた憲法と主張する憲法改正論者は、当然のこととして基本的人権を尊重してこなかった。そしてそれだけでは収まらず、基本的人権を保障する憲法そのものを改正しようとしている。環境権とか眺望権などという新しい装いをつけてはいるが、大切なことは憲法を改正する動機と方向性である。

羊頭を掲げて狗肉を売ろうとしている政治的詐欺師集団に騙されてはならない。それは前号で述べた基本的人権を購うために血を流し命を奪われた何百万・何千万の先人に対する冒涜であり、背信である。

* この小論は月刊誌『リベラル市民』平成19年3月号に掲載されたものである。

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  • 13年05月31日 09時12分AM 掲載
  • 分類: 5.憲法問題

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