ベルリンの壁の崩壊と…。
09年11月10日
No.1339
ベルリンの壁が崩壊してから、昨日は満20年であった。私たちの世代にとって、ベルリンの壁の崩壊は特別の意味をもっていた。私たちの世代は、イデオロギーの対立と無縁で青春を過ごすことができなかった。左右のいずれの陣営に立とうが、イデオロギーを意識せざるを得ない時代だったのだ。ベルリンの壁の崩壊は、イデオロギーの崩壊を象徴する出来事だったのだ。
1989年11月は平成元年11月であった。自民党国会議員としては、ベルリンの壁の崩壊は、自由主義の勝利を意味していた。バブルの最後で、世の中は金回りも良かった。本来ならば得意絶頂で良かったのだが、その夏に行われた参議院選挙で自民党は惨敗した。土井たか子社会党委員長が“山は動いた”と叫んだ選挙である。早晩行われるであろう総選挙を控え、私は毎日必死に活動していた。平成2年2月に行われた総選挙で、私は落選した。
以来3年半、厳しい浪人生活を過ごさざるを得なかった私は、毎日選挙区を歩いていたが、国会ではなぜか次第に政治改革論議が盛り上がっていた。政治改革論議といっても、その実は選挙制度の改革であった。私は、選挙制度の改革がなぜ政治改革となるのかが、どうしても理解できなかった。わが国における政治改革の現実的な課題は、政治とカネの問題だった筈である。私が昭和54年(1979年)衆議院に当選してからの10年間は、田中政治との闘いであった。田中政治を克服しない限り、わが国の政治は利権体質から脱却できなかった。
しかし、政治改革論議の中心にいたのは、田中政治のど真ん中でそこにどっぷり漬かっていた面々だった。いつも言っているように、政治は具体的問題の具体的分析であり、それに基づく具体的解決でなければならない。政治改革なるものの胡散臭さを私が禁じ得なかったのは、そのような理由からである。今回の政権交代はこの政治改革(=選挙制度改革=小選挙区制)の成果だという人もいるが、本当にそうだろうか。選挙制度など所詮ツールでしかない。争わなければならないのは、政治家の理想であり理念の筈だ。
ベルリンの壁が崩壊した歴史的時代に、わが国の政治は選挙制度の変更に血道を注いでいた。細川非自民連立内閣の時、衆議院に小選挙区制が導入された。そして、選挙制度の改革に合わせるべく、政党が“改革”されていった(笑)。政治は価値観を巡って争われるべきものだ、というのが私の信念である。だから、イデオロギーの終焉などということを、私は安易に使わない。自由主義も社会主義も、それぞれの理念・理想がある。どちらの理念・理想も、それなりに人間の本性に基づくものであろう。
だが、現実に存在した(している)政治体制としての自由主義も社会主義も、その理念・理想どおりにはいかなかった(いかない)。ありていに言えば、どちらにも“不具合”があった(ある)。それは、人間が男としてか、女としてかしか現実には存在しえないことと似ている。男には男性としての素晴らしさがあり、女には女性としての素晴らしさがある。だが現実には男として生きるか、女として生きるしかできないのである。両性人間は、現実には存在し得ないのだ。
政治も同じだ。自由・社会主義体制というのは現実には存在し得ない。リベラルは、あくまでも自由主義のひとつであり、社会民主主義とは異なる。社会民主主義は、社会主義の一形態というべきものであろう。福島みずほ氏を党首とする社民党は、立派な社会民主主義政党なのであろう。だからどうしても民主党とはどこかでブツかるのである。民主党のどこと社民党のどこがブツかるのか見ることは重要である。そろそろ民主党は己が何者であるか明らかにしなければならない。話は彼方此方(あちこち)に飛んだが、ベルリンの壁の崩壊は大きな出来事だったのだ。これからもこの問題には触れなければならないであろう。
それでは、また。