俗悪な政治番組
07年01月16日
No.307
最近私は何度かテレビの政治番組を俗悪番組と書いた。なぜ「俗悪」と形容するのか一例を挙げて説明しよう。先週の金曜日、私はスケジュールを空けておいた。そんな関係で1月12~14日まで私の手帳には何の日程も入っていなかった。ちょっとずれてはいるが小正月だ。大正月は温故の年賀状書きで正月どころではなかった。そこで私は恐ろしいものをみた。
この小正月も実はやりたいこと、やらなければならないことがいっぱいあった。いちばんやりたかったのは、私の「健康生活」実践記を書き上げることであった。いつまでもこれを未完のままにしておいたのでは、次の連載物がかけない。書きたいこと、書かなければならないことが相当ある。また即写寸言のupdateが自分でできるようになるため、トレーニングしたかった。私のWebサイトがその性質上かたくなることは仕方ないと思ってはいるが、それを少しでも和らげる努力はしなければならないと考えている。だからデジカメも買ったしいつも持ち歩くようにしている。撮り貯めたものもかなりある。いまのところWebマスターの力を借りなければこれをお見せすることができない。その他にもいろいろやりたいことがあった。
憲法改正問題講座の原稿を書き上げたこと以外正直にいって何もできなかった。何かをしようと思ってもすぐ睡魔に襲われる。きっと大正月の疲れだろう。だから私は小正月なんだから少し休もうと自らを納得させることにした。そんなノンビリした状態であったので、久々に田原聡一朗の『サンデープロジェクト』を見た。これも以前のように真面目にではなく何となくである。午前10時を少しまわっていたので、太田某とかいう財政担当大臣が出ていた。だいたいほとんどの国民が名前も知らない人物を財政担当大臣に任命するあたりに安倍首相の政治センスの無さが窺える。大臣というのはその存在自体がひとつの政策の表明なのである。
田原聡一朗の例の番組は、存在感も実績も何もないこの太田某とかいう大臣の広報宣伝番組であった。政府が政府広報費を使って、大臣などを出演させるなどして政府や省庁の広報番組を作ってときどき放送する。これには政府広報だということが明示され、見るほうもそんなもんだということで見る。しかし、『サンプロ』はれっきとした報道番組なのである。田原聡一朗がお決まりの空疎な追及の姿勢を見せてはいたが、やはり政府広報番組といわれてもしょうがないような内容であった。政府広報番組と明示されないだけに広報効果はより大きいのである。田原聡一朗は政府広報番組に出演するギャラの払われる対談相手と同じような役割を演じたに過ぎない。
この後に続くコマでは、評論家の桜井よしこと田中康夫前長野県知事が出演した。最初のテーマは桜井よしこに安倍内閣の支持率が急落した理由と反論を語らせるといったような内容であった。安倍内閣の支持率が急落した原因を究明するのは報道番組である。しかし、それに反論する機会をわざわざテレビ朝日が与えてやる必要がどうしてあるのだろうか。確かフジテレビの『報道2001』でも似たような番組があった。そのときも桜井よしこが出演して鼻にかかった声でいろいろとのたまわっていた。太田某も桜井よしこも別にヘアを見せていたわけでない。またそんなものは誰もみたいとは思わない。だがこの二つの番組が政治的な「俗悪番組」であることには変わりない。
その後の田中康夫と桜井よしこと田原の鼎談は、3人とも訳の分らないことをしゃべっていた。何らのメッセージ性もない政治漫談にもならないヘドが出るようなものであった。また看過できないのは、全体の脈絡には何も関係ないと思われる憲法改正問題について、田原聡一朗が憲法改正に賛成か反対か質問し、桜井よしこやコメンテーターの草野某慶応大学教授・某とかいう『論座』編集長に賛成だといわせたいたことでる。桜井よしこにいたっては「日本には本当の憲法がない」と訳の分らないことをのたまわっていた。憲法問題は国政のもっとも大切なテーマである。田原聡一朗および『サンプロ』の製作者は放送法の次のような規定を知っているのか。
(国内放送の放送番組の編集等)
第三条の二 放送事業者は、国内放送の放送番組の編集に当たつては、次の各号の定めるところによらなければならない。
1 公安及び善良な風俗を害しないこと。
2 政治的に公平であること。
3 報道は事実をまげないですること。
4 意見が対立している問題については、できるだけ多くの角度から論点を明らかにすること。
私は郵政政務次官をしたことがあるので、放送の自由と公平性については特別の関心を抱きながらテレビを見ている。自由主義国にはそれぞれの国で作られた放送コードがある。これまではこれらを参考にして各局ともそれなりにけっこう真面目に政治番組を作ってきた。小泉首相の登場を機に、そうした雰囲気がまったくなくなってしまった。それは現在も変わりがない。政治評論家の森田実は「マスコミを信用してはならない――日本のマスコミは政治権力と合体し国民を支配し圧迫する凶器と化した」と、Webサイトを通じてシリーズでマスコミ批判をしている。ジャーナリズムやマスコミに携わる人の傾聴を求める。
「新聞なき政府と、政府なき新聞のどちらを選ぶと問われたら、私は躊躇せず後者だ」
アメリカ合衆国第3代大統領トーマス・ジェファーソン(Thomas Jefferson 1743~1826)の言葉である。ジェファーソンの時代には、テレビもラジオもなかった。だからマスコミといえば新聞だけだったのだろう。マスコミの監視や批判に晒されない政府は、必ず悪政や暴政を行う政府になるという戒めだ。現在のわが国のマスコミは、批判をしないばかりではなく政治権力と合体しはじめたようである。こうなったらもう悪政や暴政が行われるのは自然の流れというものである。私がこのWebサイトで精一杯いろいろなことを述べるのは、この流れに抗せんとするからである。只とはいえないが、比較的お金をかけずにこれをすることができるのがインターネットの強みである。しかしその情報量は圧倒的に少ないことを私たちは知っておかなければならない。(文中敬称略)
それでは、また。