暫定税率復活は世紀の悪政
08年05月27日
No.820
わが国はこれまで2回の石油ショックを経験している。第一次石油ショックは1973年(昭和48年)に起こった。この時、1バレル3ドル前後であった原油が12ドル前後に値上がりした。すなわち原油価格が4倍に跳ね上がったのである。トイレットペーパーや洗剤がスーパーからなくなり、東京のネオンが消された。そういえば記憶のある方もいるのではないか。
第2次石油ショックは1978年(昭和53年)に起きた。この時1バレル13ドル前後であった原油が1バレル28~30ドル前後に値上がりした。すなわち原油価格が2倍になったのである。第一次石油ショックの4倍の値上がりに対して、2倍の値上がりに過ぎないのだから大したことはなかったと思いがちだ。しかし、そうではない。4倍になっていた原油価格が2倍になったのである。経済的加重はどちらも同じなのである。金額にすると第一次石油ショックが12-3=9円/バレルに対して第二次石油ショックは28-13=15円/バレルで、上昇した金額は後者の方が大きかったのである。
第一次石油ショックの時の首相は田中角栄氏だった。田中首相は中曽根通産大臣にありとあらゆる対策をとるように命じ、中曽根通産大臣は派手なパフォーマンスを込めていろいろな施策を講じた。しかし、ほとんど功を奏することなく物価は上昇し、狂乱物価と呼ばれる経済混乱を招き田中内閣退陣の一要因ともなった。これが第一次石油ショックであった。
第二次石油ショックの時の首相は大平正芳氏であった。私は1979年(昭和54年)に衆議院議員に当選したので、この時のことをよく記憶している。大平首相は万事において地味な政治家だった。中曽根通産大臣が行ったような派手な対策をほとんど講じなかった。新人議員としてはそのことに不満があったが、大平首相は「対外的要因で原油価格が上昇し、政府としてこれを阻止することができない以上、国民からこれを早く呑み込んでもらいそれを前提に経済活動を行ってもらうしかない」と主張した。
ここにある問題に対する対処法の二つの典型がある。ひとつはできもしないことを何とかするといって派手に騒ぐことである。原油価格の急激な上昇は、いずれも国際的な政治的要因によるものであった。だが、わが国の政府としては打つ手は実際にはなかった。大平首相は「政治がやれることを政治家は命がけでやらなければならない」と常々いっていた。しかし、政治がどうにもできないことを何とかするといって派手なパフォーマンスを行い、結局は国民を騙すことになることを嫌う政治家であった。
大平首相が講じた対策は、原油価格の上昇を所与のものとして受け入れ、それを前提に政府としてできる政策を思い切り行うことに徹したのである。省エネルギー政策や税制措置などを積極的に講じた。その結果、第二次石油ショックをわが国は比較的混乱もなく早期に克服した。大平首相は政府としてできることを何でもやった。省エネに関する予算措置や税制措置は、ほとんどこの時期に立てられ、その後長くわが国の政策として実施された。それがわが国の省エネ技術を発展させた。
わが国の経済にとって、現在の物価の高騰は深刻である。今回の物価高騰の要因は原油価格の高騰だけではない。食料と鉱物資源の高騰も深刻である。いずれも対外的要因であり、食料を除いては政府として打つ手はほとんどない。わが国はこれを受け入れて経済活動を行うしか方法がないかもしれない。しかし、政府として行える政策は全力で行わなければならない。農業や食品加工工業などに関する政策を抜本的に見直す必要がある。一方、資源外交なども長期的視野に立って練り直さなければならない。
しかし、きわめて単純なことがある。政府の行為によって物価上昇となる要因を取り除くことである。国土交通省の建築基準の変更により、建築不況が生まれたといわれている。早急に対策を打つべきである。道路特定財源の暫定税率が期限切れでせっかく廃止されたのに、政府はこれを強引に復活させたことは、政府自らの行為によって物価上昇の原因をわざわざ作ったのである。まさに世紀の悪政である。世紀の愚策である。自公“合体”政権の責任は大きい。道路特定財源の一般財源化などというマヤカシに騙されて野党がこれを許したとしたら、同罪の謗(そし)りを免れない。政治家は歴史に学ばなければならない。
それでは、また。