福田内閣批判
07年09月27日
No.563
これまで自民党総裁選などと関連して、福田首相の政治的属性を斜に構えて批判してきた。しかし、福田氏が総理大臣に就任し、福田内閣が正式に発足した以上、これに対して根本的・全面的に批判することにする。なぜならば、この内閣が私たちを支配しているからである。
福田首相は、安倍改造内閣のほとんどすべてを再任した。このことは福田首相の政治的考えを端的に示した。それは、福田首相が“反民主的な政治家”であるということを自白である。安倍首相が結局は辞任せざるを得なかったのは、参議院選挙で示された国民の意思を公然と無視して続投をしようとしたからである。これは普通の民主主義的考えをもっている政治家ならば、とうてい理解できないことであり、これに従うことはできない筈である。福田首相もそのように考えていた筈である。
自民党という政党がまともな政党であるならば、自らの意思で安倍首相の続投を阻止しなければならなかった。一部には異を唱える者もいたが結局は安倍首相の続投を許した。この時点において、一人ひとりの自民党国会議員にこのことを是認するか否かという意思表示をする機会はなかった。従って、すべての自民党国会議員は不作為でこれを許した罪を負っている。しかし、安倍改造内閣の閣僚・副大臣に就任した者は、不作為の罪では済まされない。安倍首相が続投をするために作った内閣に積極的に参加したのだから、安倍首相の続投を積極的に支持した者と看做されても仕方ないと思う。
安倍首相に続投をけしかけた麻生氏の罪は重いと私は指摘してきた。本来ならば安倍後継の本目でも良かった麻生氏の包囲網が一挙にできたのは、多くの自民党国会議員もそのくらいの常識をもっていたからだと私は思った。しかし、そんなようにみたのは、私の買い被(かぶ)りであった。福田首相が閣僚の大部分を再任したことを多くの自民党国会議員が評価しているようであるが、それは安倍首相の続投を支持したことと同じである。安倍改造内閣は、反民主的な安倍首相が残した醜悪な遺物なのである。それをそのまま居抜きで継承することは、安倍首相の続投を認めたと看做されても仕方ないであろう。
福田首相が安倍前首相の続投に否定的であったら、意地でも安倍改造内閣の閣僚は総取替えしなければならなかった。それが“ケジメ”というものである。福田首相にはそのような考えは微塵もないようである。自民党の国会議員もそのような認識はまったくないようである。公明党も同じである。福田首相や福田内閣を報道・評論するマスコミや評論家にもこういう視点はないようである。しかし、これは基本の中の基本である。ものごとの基本が分からない者が一見もっともらしいことをいっても、そんなことはほとんど意味のないことなのである。
福田首相は、もっとも悪しき意味における“派閥政治家”である。森、小泉、安倍、福田と4人連続して清話会という派閥から首相が選出されている。清話会という派閥は、故福田赳夫氏が創設・維持してきた派閥である。福田首相は、清話会の会長が変わっても本当のオーナーは自分であるとの意識をもっている政治家だった。私は小泉氏の2回目の総裁選のときに小泉氏を応援したが、そのとき若干福田氏と付き合った。当時の清話会の会長は森喜郎氏であったが、福田氏はオーナー然と他派閥の私に対応していた。このことは清話会の現在の会長である町村信孝氏を官房長官に任命したことからも窺える。
安倍晋三氏が総裁選に立候補することを決めたとき、「麻垣康三」として総裁候補に擬せられていた福田氏があっさりと降りたのも、同じ派閥から2人も立候補することは好ましくないし、父君の作った清話会が壊れることをもっとも危惧したからであろう。多くの人々が1年前に歳だからといって総裁選を辞退した者が、さらに歳をくっているのに“敢然と”今回の総裁選に立候補したことが理解できないといっていた。しかし、こう考えればごく自然のことではないか。もっとも悪しき意味における派閥政治家である福田首相には、派閥の責任者(あえて領袖とはいわない)をずらりと大臣・党役員に並べることなど何らの違和感もないのである。
福田首相は、福田内閣を「背水の陣」内閣と自ら命名した。へまをすると自民党が政権から叩き落される危機感をこう表現したのである。自民党が政権から引きずり落されるかどうかということは、基本的には私事である。自民党という政党は、畢竟プライベート・パーティなのである。選挙で国民の支持を得てこそはじめて政権党になることができるのである。自民党が政権党であることなどアプリオリに決まっている訳ではない。
福田内閣が一生懸命に仕事をしなければならないのは、内閣が現在政権を担当しているからであって、自民党や公明党のためではない。福田内閣が一生懸命仕事をしなければならない理由が、自民党や公明党が引き続き政権党でいるためだとしたら、税金を使って来るべき総選挙の事前運動をすることを自白しているようなものである。こうしたちょっとしたことに福田首相の本性が剥き出しになるのである。品性も見識もない強欲さを暴露したネーミングである。総理大臣の一言一言は、このように厳しく批判されなければならない。私は大平正芳首相の生き方の中でこのことを学んだ。とりあえず、思い当たることを書いた。これからも具体的な例を挙げながら福田内閣を厳しく批判するつもりである。
それでは、また明日。