血筋を好む安倍首相?
07年08月29日
No.533
昨日東京で久しぶりに雨が降った。日本は“みずほの国”である。雨が降って当たり前と思っている人が多いが、雨が降るというのは大変なことなのである。猛暑も一区切りするようだが、この間私は意地を張って猛暑の中で散歩することを心がけてきた。そしてこう考えてきた。アラブ中東をはじめとしてアフリカやインドなどでは、原則として毎日がこのように暑いのである。イスラム教やヒンズー教もこうした地域で生まれた宗教なのである。概略でよいから一度イスラム教をキチンと勉強をしなければならない、と……。
予想したとおり、党・内閣の改造があるとマスコミはなんだかんだと騒ぎ立てる。変に“政治ズレ”をしている安倍首相や麻生幹事長は、これを狙ったのであろう。今回の人事にはそのウケを狙った感じが随所にあるが、そんなことはほんの一時しのぎの効果しかない。自民党の危機はそんなに“なまやさしい”ものではない。それは自民党の基本に関わることまで反省しなければ立ち直れるものではないのだ。「反省すべき点は反省する」といっている安倍首相だが、このことがまったく理解できていないのである。
自民党がなぜ長い間政権党でいることができたのか。それは国民の現実の生活を良くすることにいちばん腐心してきたからである。そういう意味では、今回の小沢民主党の「生活が一番」というキャッチコピーは自民党のものだったのである。それに対して自民党が唱えた“改革”は、国民の生活を向上させる改革ではなく国民の生活を破壊するまやかしの改革だったのである。その“改革”をこれからも続けていこうというのだから、事態が好転する筈がない。
わが国における戦後最大の改革は農地改革であったと私は思っている。わが国が行った農地解放は、社会主義革命でもなければ実行することが期待できないくらいの革命的改革であった。農地を手にした小作農は、経済的に生活の基礎を得ただけではなく人間として生きる基礎を得たのである。戦前の農村は、地主が支配する社会だった。その地主が没落し、小規模の自作農が生産の基礎を担うことになった。農業生産力は飛躍的に増大し、農村社会は劇的に変革していった。当時の日本では、第一次産業の従事者が圧倒的の多かったのである。
もうひとつの経済的な改革は、財閥解体である。こちらの方は農地解放ほど劇的ではなかったが、圧倒的な支配力をもっていた財閥が解体されることにより、多くの企業や自営業者が誕生した。闇市経済からも多くの企業が生まれた。多くの企業や自営業者に支えられた経済に目標を与えたのが、加工貿易立国という目標だった。経済を担当する役所の名称が、商工省から通商産業省と変わった。その通商産業省の昭和24年『通商白書』では、「<輸出か死か>は今や英国民の合言葉ではない」とさえいっている。
加工貿易立国の中心産業は、いうまでもなく第二次産業である。多くの工場が生まれた。その中に労働組合が結成された。わが国の労働者は、働くことと自己の生活を向上させることを両立させる道を得たのである。それでもわが国の労働力は、質の高い割には低賃金であったために、輸出の大きな武器となった。輸出をするといっても、その舞台である世界ではまだ多くの国がわが国と同じように貧困に喘いでいた。当然のことながら主なる輸出先はアメリカなどの先進国だった。こうした国と国民の努力の結果、わが国は世界の奇跡といわれる復興を成し遂げ、一億総中流社会と呼ばれる豊かで平等な国づくりに成功した。
これがわが国における戦後の経済の歩みである。この歩みは、間違っていたのだろうか。私は基本的には正しかったと思う。世界の政治情勢も経済情勢も大きく変わったのだから、同じ基本に立ちつつも戦略や戦術を変えていかなければならないのは当たり前のことである。加工貿易立国を掲げた第二次世界戦争の直後の世界は、多くの国が貧困に喘いでいた。しかし、中国やインドをもちだすまでもなく、いまやこうしたところが豊かな市場としてある。そして何よりもわが国自身が世界でも大きな国民生産を誇る膨大な市場なのである。わが国の経済成長の可能性は大きく開けていると私は考えている。
ところが、安倍首相はこうした大きな流れを戦後レジームと認識し、“戦後レジームからの脱却”を中心的な政治課題としている。麻生幹事長の認識もだいたい同じようなものである。だから安倍首相と気が合うのだろう。だが、そんなことで万事がうまくいく訳がない。中国や朝鮮半島の国を蔑視するような基本認識をもった政治家が、これらの国々と政治的にも経済的にもさらには文化的にもパートナーなる外交戦略を実行できるわけがない。政治家の役目は、基本的なことをキチンと行うことなのである。そのことをキチンとやっておけば、あとは官僚や民間が智恵を働かしてうまく行うのである。だから、政治家の基本認識に私はこだわるのである。
今回の党・役員人事で、論評に値するような政治家がいるようには思えない。例えば、内閣の要といわれる官房長官の与謝野馨氏だが、自民党が野党に転落したとき彼はハイジンだといわれた。“俳人”の与謝野蕪村と“廃人”のように虚ろになり意気消沈していた与謝野馨氏を仲間が嘲笑したのである。平成5年の選挙で当選すれば、大臣確実といわれた与謝野氏だったのが自民党が野党に転落したためにそれは叶わぬ夢となったからである。要するに政治家ではないのである。与謝野鉄幹・晶子という偉大なる祖父母をもつちょっと頭のよい男に過ぎないのである。安倍首相は血筋が好きなようである。もっとも彼にはそれしかないのだから仕方ないか(笑)。
それでは、また明日。