自公“合体”政権批判(2ーその2)
07年05月05日
No.416
経世会の自民党支配の秘密
<永田町徒然草No.415からつづく> 社会党や新党さきがけの政権に対する執着は、自社さ連立を成立させるモメントにはならなかった。自社さ連立を成立させるためには、何らかの大義名分=目的が必要だった。
私は平成6年の初めころから、細川首相の1億円疑惑とは別に非自民連立政権の政治的体質を問題にしていた。私は非自民連立政権の内部にいた訳ではないが、非自民連立政権の政治的体質は問題の多いものだった。それは細川連立政権の最大の実力者であった小沢氏の政治的発想や手法に起因していたものと思われる。
私は自民党において長年にわたり経世会支配と闘ってきたが、それと共通するものがあった。小沢氏は、経世会が自民党を支配した手法で非自民連立政権を掌握できると考えていたような気がする。ここに小沢氏の大きな認識不足があったのではないだろうか。自民党を経世会の手法で支配できたのは、自民党の派閥や国会議員に政権欲があったからである。しかし、非自民連立政権を構成していた政党には、政権に対する執着がそれほどない政党もあるということに思いをいたさなかったのではないだろうか。
もちろん、社会党全体に政権への執着がなかったなどと私は思わない。政権欲旺盛な人もいた。それが社会党の中の争いとしてあったことは事実である。その人たちは、せっかく手に入れた非自民連立政権に固執していた。一方、社会党左派といわれる人たちには、政権欲というようなものはほとんどなかった。私たちが連立を模索せざるを得なかったのは、この人たちであった。
“一・一ライン”に対抗する自社さ連立
小沢氏と公明党の市川雄一書記長が非自民連立政権の中で大きな力をもっていた。このふたりによる非自民連立政権の運営は、“一・一ライン”などと呼ばれ、強権的な政治を代表する言葉となった。私たちは、この強権政治に対抗することを社会党や新党さきがけに訴えた。
しかし、社会党からみれば自民党も強権的な政党であるというイメージはあった。これでは、共同戦線がはれる筈がない。自民党がそうでないことを示す必要があった。それには自民党がいままでとは変わったことを表明する必要があった。その標語が“リベラル”であった。新自由クラブの代表を務めた河野洋平氏が自民党総裁であったことは、ある程度の説得力をもった。自民党のリベラル派は具体的な目標をもって結集した。新党さきがけの国会議員は自民党にいた時、私たちリベラル派と行動することが多かった。新党さきがけとの連携はそんなに難しくはなかった。
社会党と連立について協議する上で、憲法問題は避けて通れない課題であった。私たちは、正面からこの問題を議論した。自民党と社会党と新党さきがけの有志でつくった「リベラル政権を創る会」の設立趣意書で、この問題については次のように結論づけ合意した。
「日本国憲法の精神を尊重し、自由で公正な社会をつくり、市民参加を重んずる民主的な政治をめざす。」
自社さ政権は、“一・一ライン”に象徴される強権的な政治に対抗するために生まれた。その理念は、“リベラル”であった。リベラルというのは、ひとつの政治的価値観であり、少なくとも“非自民”ということよりは一歩進んだ連立であった。
自社さ政権は、事の経過をよく知らない人たちから“野合政権”と激しく非難された。だが実際に自社さ連立を成立するために努力した者には、それは的外れの非難や批判であり、あまり痛痒は感じなかった。政策的な乖離も、リベラルという価値観があればだいたい埋めることはできると考えていたし、また実際にそうなった。
私たちは、社会党が日米安保条約や自衛隊や国歌国旗について党内の了承を得ることができるのか不安であったが、村山首相は見事に解決した。一方、自民党がリベラルな路線を歩めるかどうかも心配であったが、リベラルな路線から自民党が逸脱した時に連立は崩壊し、再び野党に転落するのだという緊張感があった。
自社さ政権の意義
連立政権にとって、政策調整は最大の問題である。ある党にとってどうしても納得できない、妥協できない問題が生じた場合には、連立離脱ということが生じる。この緊張関係があるかないかでその連立の質が決まる。細川連立内閣では、非自民政権というだけで歴史的・政治的価値が十分あったのだが、そこに政策の一致を強引に持ち込もうとしたために社会党や新党さきがけの連立離脱を招いてしまった。
自社さ連立政権は、強権政治を終らせる目的があったが、このことはあまり国民には理解されなかった。従って、具体的に政策を実現してゆかなければ、国民の理解と支持は得られなかった。その政策調整の中心的にいたのが、加藤紘一自民党政調会長だった。
自社さ政権の政策協定はあった。しかし、そこにすべての問題が書いてある訳ではない。また政権には、処理しなければならない問題が次々と突きつけられる。“リベラル”という基本的価値観はあるもののいろいろな問題を具体的に処理するとなると難しい場面もあった。自社さ3党の政策担当者は、時間と労を惜しまず政策調整を行った。被爆者援護法の制定や水俣病問題の最終決着などは、このような努力の結果なされたことである。
私は、自社さ連立政権が果たした役割は実は大きいと思う。それまで自民党と野党第一党である社会党の間には理解や妥協ができない根本的な違いがあると多くの人々が思ってきた。しかし、日米安保も自衛隊の問題も相対的な違いであり、調整や妥協が可能だということが判ったことである。ある事柄が、調整可能な問題なのか、それとも調整不能な問題なのかは、非常に重要なことなのである。そのことが見決められれば、政治の場における不毛な対立を防ぐことができる。
自民党と社会党の合同!?
平成8年1月5日、村山首相は辞任した。前年の10月、自民党の総裁となっていた橋本龍太郎副総理・通産大臣が首相に就任した。自社さ連立政権とはいえ、自民党にとっては2年半ぶりの悲願達成であった。
自民党から首相は出せたものの、橋本内閣の基盤が自社さ連立であることに何の変化もなかった。そして1年半後には、新しく決まった小選挙区で行われる総選挙が控えていた。前年行われた参議院選挙で、自民党は新進党に比例区で3議席少ない15議席しかとれなかった。自民党にとって厳しい選挙になることは明らかであった。
一方、社会党の中も揺れていた。村山氏が辞任した理由のひとつが党内の路線問題であったといわれている。自民党でさえ次の選挙は厳しいのであるから、社会党にとってそれは一層深刻であった筈である。そんな中で、きわめて限られた範囲であったが、自民党と社会党の合同・合併ということが話題になった。私は選挙担当の総務局長として、積極派だった。
それは、選挙を考えれば、そうでもしない限り自民党勝利の展望が開けなかったこともあったが、本当の理由は別のところにあった。自民党は国民政党だというが、労働組合の支援を全然もたない国民政党などというものはおかしいという考えからであった。確かに社会党を支持してきたのは、総評といわれる労働組合連合だが、そういう組合のある企業の経営者が上手く付き合ったいるのだから、自民党がそうした労働組合と上手く付き合っていかなければならないと思っていたからである。
私は本気で話したのだが、自社さ連立に積極的だった社会党の国会議員にも残念ながらこれは受け容れられなかった。
こうして橋本首相を擁して、自民党は単騎で来るべき総選挙に臨むことになる。
<6月号に続く>
それでは、また明日。