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戦後第1期生の気概と覚悟

15年06月22日

No.1756

昭和20(1945)年6月22日未明、私は新潟県中魚沼郡中条村(現十日町市)大字四日町1383番地に生を受けた。なぜ未明に生まれたかというと、西洋の星占いに興味を持っていた際、私が生まれたのは夜か昼かとお袋に訊いたのだ。お袋から未明に生まれたと直接聴いたのだから、多分間違いないのだろう。生まれたのが未明か夜かによって、星占いでの私の星座が“かに座”になるのかどうか違うからだ(笑)。

翌6月23日、沖縄県首里地区における最後の攻防戦が決着し、多くの犠牲を伴った沖縄戦は終結した。それからいろいろな事があって、私が生まれてから2ヶ月も経たないうちに、8月15日の終戦を迎えた。正確には、私は戦前の生れなのであろうが、実質的には戦後の生まれであると思い、私は“戦後第1期生”であると自覚して生きてきた。“勝彦”という名前を付けられたのも、敗色濃厚ではあったが、敗戦国にはなりたくないという家族のせめてもの意気地だったのではないかと思っている。

初の女性参政権で当選、登院した女性議員
▲ 初の女性参政権で当選、登院した女性議員

私が生まれて1年も経たない昭和21年4月には、女性も初めて参加した総選挙が行われ、これが、実質的な憲法制定議会となった。昭和21年11月3日には、日本国憲法が公布された。敗戦に至る経過も(あわ)ただしかったが、ポツダム宣言を受諾した後のわが国の歩みも慌ただしかった。もちろん、生後1~2年の私がこの事を知る由はなかったが、私は間違いなくその中で息をし、成長してきたのである。私は、“戦後という時代の子”であり、その“第1期生”なのである。

写真
▲ 厚木海軍飛行場に到着したマッカーサーら

今年は、戦後70年の節目の年である。私たちは、歴史的存在である。私たちは、お互いに戦後70年という時代を生き抜き、その結果としての現在に生きている。この時代を好もうが、忌み嫌おうが、この歴史的事実を否定することはできない。日本国憲法は、昭和21年11月3日に公布され、昭和22年5月3日に施行されたが、昭和27年4月までは、連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)の支配下にあった。

それらを承知した上で、さて、戦後とはどのような時代であったのか。大雑把に言って、戦後とは、明治憲法的価値観が昭和憲法的価値観に転換していく時代であった。明治憲法的価値観と昭和憲法的価値観には、大きな相違がある。その転換の過程で起こった混乱は、避けることができなかった。しかし、国際情勢に恵まれたことと、日本国民の努力とが相俟って、昭和憲法的価値観へは、比較的スムーズに転換できた。

この戦後の歩みを、私は肯定的に評価している。多くの日本国民も同じように評価していると、私は確信している。しかし、今日のようになるためには、明治憲法的価値観に回帰しようとする勢力との厳しい戦いは、避けようがなかった。それは、保守政治家というより、右翼反動勢力との戦いであった。安倍首相こそ、戦後最も危険な右翼反動政治家である。その安倍首相が、公然と憲法9条を否定しようとしているのだ。戦後第1期生として、戦わざるを得ない。以上、永田町徒然草No.1755「檄:さぁ、全面戦争だ!!」檄を飛ばした所以と、私の覚悟の程を述べた次第である。

今日は、このくらいにしておこう。それでは、また。

  • 15年06月22日 12時23分AM 掲載
  • 分類: 2.国内政治

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