政治家の言葉のあり方
07年04月03日
No.384
日曜日あたりから新聞やテレビが知事選等の世論調査の結果を発表している。ぼやかして書いてはいるが、選挙期間中の常套的な書き方を踏まえると野党側にはかなり厳しい数字がでているようである。最近の世論調査の確度は、非常に高くなってきている。よく当事者は、「あんな世論調査が新聞に書かれなければ勝てたのだが…」などというが、アナウンスメント効果もいわれているほどはないのである。野党が奇跡を起こすためには、必死で頑張らなければならない。
さて、私は日曜日から数本の原稿を書きまくっている。私のスケジュールをみると来週出張があるので、いま書いておかないと締切りに間に合わなくならからである。数本ともテーマはまったく別なので、それぞれ新しく書き起こさなければならない。頭にずーっとあったことでも、文章にすると意外なことに気付き当初考えていたものとはかなり違った展開をすることもある。以下はそんなもののひとつである。
政治家の言葉の良否の基準
宗教というものは、人間の人知を超えるもので人間を救済しようとする営為である。一方、近代自由主義は、人間がお互いに証明することができる言葉や事実を使いながらこの世の中に生起する諸問題を解決しようとする政治手法である。しかし、近代自由主義は、人間がそれだけでは必ずしも充足されることはなく、また国家や社会の運営も上手くいかないことを経験上知っている。だから、近代自由主義は、思想・良心・信教の自由をもっとも根源的な基本的人権として認め、その役割を宗教などに期待している。
近代自由主義の憲法である日本国憲法は、
「思想および良心の自由は、これを侵してはならない」(第19条)
「信教の自由は、何人に対してもこれを保障する」(第20条)
と規定し、この基本的人権は「人類の多年にわたる自由獲得の努力の成果であつて、これらの権利は、過去幾多の試錬に堪へ、現在および将来の国民に対し、侵すことのできない永久の権利として信託されたものである」(第97条)と宣言している。
宗教団体の「現世至上主義、金権、数の論理、票を使っての政治支配」は、宗教の根本的な役割を否定するものであり、宗教そのものの否定にもなりかねない。一方、政党は、「人間がお互いに証明することができる言葉や事実を使いながらこの世の中に生起する諸問題を解決しようとする政治」の世界における存在である。従って、「現世至上主義、金権、数の論理、票を使っての政治支配」は、必ずしも否定できないし、品性を欠くものでなければ許される。これらは、いずれも言葉や数値を使って証明できることである。
自民党がまさにそういう特質をもった政党であることは、広く知られているところである。しかし、仮にそのような特質をもった政党だとしても、許容される限度というものがある。それを超えた場合には、有権者は政党としてふさわしくないということで厳しい批判をする。自民党は、スキャンダルにより国民の厳しい批判を受けてきたが、平成4年に発覚した金丸信自民党副総裁に対する金権批判により、ついに野党に転落した。
政党は、現世利益至上主義で構わないし、数の論理を用いることも仕方ないし、政治資金を豊富にもつことも必ずしも否定されない。しかし、それにはその時代に許容される限度を守り、品性をもたなければならないということである。私がここでいう“品性”には、理想とか理念ということも含まれる。なぜならば「人はパンのみにて生きるにあらず」だからである。現実は現実としても、国家や社会がどのような未来に向かわなければならないのかということである。一つひとつは小さくともそれが理想に向かっての一里塚であることを証明する努力を政党はしなければならない。国民がそれを実感できるとき、その国家や社会には理想や希望があることになる。しかし、ハッキリさせておかなければならないことは、その理想や理念は検証可能なものであることである。
自民党などは、そもそも理想や理念をもたない俗物的な政党だという人は多いであろう。そんなことは、自民党の国会議員として20年近く過ごした者であるから嫌というほど知っている。しかし、俗物的な政党ということは、ある意味では検証可能であるということであり、必ずしも否定されることでない。「均衡ある国土の建設、格差の少ない安定した社会、福祉社会の建設、所得倍増論、専守防衛・平和国家の実現などなど」 これらは、いずれも理想や理念として正しいし、いっている内容もだいたい分る。そして大切なことは、一定の数値や概念で検証可能である。
それに対して、小泉前首相が使った「構造改革」という言葉は、理想や理念を語っているようだが、果たして検証可能であろうか。どのような構造をどのように改革するのかが明らかにされなければ、いったい何のための改革か判らない。「聖域なき改革」といっても、いったい何を聖域というのか明らかにしなければ、実は何をいっているのか判らないのである。 以上
それでは、また明日。