デマゴーグここにあり。
14年06月14日
No.1675
自民党と公明党との、集団的自衛権に関する“協議”が繰り返されてきた。マスコミは、さも重大事のように報道してきた。私は、自公連立問題について、誰よりも問題を提起してきた人間である。だから、最初からこの協議を胡散臭いと見ていたが、やはり間違っていなかったようだ。与党協議と称されるこの会合で
私は数回にわたり、永田町徒然草で「現行憲法の下では集団的自衛権の行使は許されない」と言ってきた。これは、多くの憲法学者の多数意見であり、また歴代政府の憲法解釈であった。わが国が集団的自衛権を行使できないことを最も端的に説明しているのが、永田町徒然草No.1672「ないものはない」のだである。もう一度ご覧を頂ければ、幸いである。
集団的自衛権の本質は、「わが国に対する武力攻撃がないのに、他国に対する武力攻撃を理由に、第三国に対してわが国が武力攻撃を加えること」である。憲法で認められている個別的自衛権とは、質的に異なるのだ。わが国には、個別的自衛権も認められていないと主張する人々もかなりいた。それに対して、個別的自衛権は認められることを説明したのが、1972年の政府見解(田中内閣)である。
1972年の自衛権に関する政府見解の全文
国際法上、国家は、いわゆる集団的自衛権、すなわち、自国と密接な関係にある外国に対する武力攻撃を、自国が直接攻撃されていないにかかわらず、実力をもって阻止することが正当化されるという地位を有しているものとされており、国際連合憲章第51条、日本国との平和条約第5条、日本国とアメリカ合衆国との間の相互協力及び安全保障条約前文並びに日本国とソビエト社会主義共和国連邦との共同宣言3第2段の規定は、この国際法の原則を宣明したものと思われる。そして、わが国が国際法上右の集団的自衛権を有していることは、主権国家である以上、当然といわなければならない。
ところで、政府は、従来から一貫して、わが国は国際法上いわゆる集団的自衛権を有しているとしても、国権の発動としてこれを行使することは、憲法の容認する自衛の措置の限界をこえるものであって許されないとの立場にたっているが、これは、次のような考え方に基づくものである。
憲法は、第9条において、同条にいわゆる戦争を放棄し、いわゆる戦力の保持を禁止しているが、前文において「全世界の国民が……平和のうちに生存する権利を有する」ことを確認し、また、第13条において「生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、……国政の上で、最大の尊重を必要とする」旨を定めていることからも、わが国がみずからの存立を全うし国民が平和のうちに生存することまでも放棄していないことは明らかであって、自国の平和と安全を維持しその存立を全うするために必要な自衛の措置をとることを禁じているとはとうてい解されない。
しかしながら、だからといって、平和主義をその基本原則とする憲法が、右にいう自衛のための措置を無制限に認めているとは解されないのであって、それは、あくまで外国の武力攻撃によって国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底からくつがえされるという急迫、不正の事態に対処し、国民のこれらの権利を守るための
止 むを得ない措置としてはじめて容認されるものであるから、その措置は、右の事態を排除するためとられるべき必要最小限度の範囲にとどまるべきものである。そうだとすれば、わが憲法の下で武力行使を行うことが許されるのは、わが国に対する急迫、不正の侵害に対処する場合に限られるのであって、したがって、他国に加えられた武力攻撃を阻止することをその内容とするいわゆる集団的自衛権の行使は、憲法上許されないといわざるを得ない。
少し長くなったが、政府見解の全文を引用した。豪放磊落な田中角栄首相でさえ、個別的自衛権の行使について、慎重の上にも慎重に行使する必要を説いたのだ。そして、「他国に加えられた武力攻撃を阻止することをその内容とするいわゆる集団的自衛権の行使は、憲法上許されないといわざるを得ない」と、明確に否定しているのである。これは、1981年の政府答弁書(鈴木内閣)にシッカリと踏襲されている。これが、自民党保守本流の考えであった。
いま、ヘンな作文を考えている自公“合体”政権は、こともあろうに集団的自衛権の行使容認の根拠を、1972年政府見解に求めようとしている。「国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底からくつがえされるという急迫、不正の事態に対処し、国民のこれらの権利を守るための
危機をいたずらに煽るのは、デマゴーグのやり口である。戦争への恐怖こそ、デマゴーグが最も好んで用いてきた手口であった。安倍首相とその仲間(公明党も含む)の今のやり口こそ、まさにデマゴーグそのものではないか。最も非難されなければならないのはデマゴーグだが、軽佻浮薄なデマゴーグのデマゴギー(デマの語源)にのせられてこれを許したら、その国民も同じように非難されなければならない。日本国民は、覚醒しなければならない。
今日は、このくらいにしておこう。それでは、また。