ヘッダバイパス[j]ump
liberal-shirakawa.net 白川勝彦 Webサイト (HOMEへ)
白川勝彦へメールを送る
永田町徒然草を閲覧しています
自薦論文を閲覧します
白川文庫を閲覧します
フォトエッセイ即写一言を閲覧します
永田町徒然草
自薦論文
白川文庫
フォトエッセイ 即写一言
プロフィル
リンク

 

自公“合体”政権批判(1-その2)

07年03月25日

No.375

新進党勝利との見方が大半

(永田町徒然草No.374からつづく)思い出してほしい。平成8年10月に行われた総選挙は、自民党と新進党の命を懸けた政治決戦だった。旧社会党の多くは民主党から立候補したので、自民党と新進党の戦いは新進党の中心にどっかりと座っていた創価学会・公明党との戦いとなった。自民党は、政治評論家俵孝太郎氏が書いた「新進党は創価学会党である」という論文やジャーナリストの内藤国男氏の書いたビラを配って対抗した。要するに新進党の創価学会党性を突き、自民党は政教分離の必要性を徹底的に訴えたのである。

自民党を支持する宗教団体は多くあった。自民党は保守政党であるからそれはごく自然なことなのだろう。宗教団体は経済的な団体などと違って予算を伴う政策的要望などをあまりしない。せいぜい宗教団体に対する課税の特別措置を求めるくらいなものである。宗教団体に対する課税の特別措置といっても、それは他の公益的な団体(社団法人や財団法人)と同じように扱うというだけのものなのである。宗教に公益性があるとの考えからである。
 しかし、公明党の政権参加となると、宗教者や宗教団体にとって話は別になる。政教分離は、宗教者や宗教団体にとって最重要な問題であった。
 野党やマスコミは、政教分離の問題をそれほど重要とは考えていなかった。細川非自民連立政権以後も、反自民の風潮は依然として強かった。自社さ政権を作って自民党は政権に復帰したが、総選挙では新進党に敗北して再び野党に転落するとの見方が大半だった。
 私は平成7年11月から加藤紘一幹事長の下で、来るべき総選挙の候補者選定を主任務とする総務局長に就任した。その総選挙は、小選挙区制で行われる初めての選挙であった。平成7年夏に行われた参議院選挙では、新進党が比例区で第一党となった。比例区では新進党18議席に対して自民党15議席であった。新進党強しとみた有望な新人候補は、雪崩をうったように新進党へ走った。

壮絶なバトル

私が総務局長に就任した時点(平成7年11月)で、300の小選挙区で自民党の候補者は200人しか決まっていなかった。これに対して新進党はすでに230の小選挙区で候補者が決まっていた。
 あらゆるデータを使って選挙結果を予測しても(それが総務局長の最大に任務である)、新進党に勝てるという予想は出なかった。マスコミ等も同じような予測をするのだが、ほとんどが新進党が勝つと予想していた。また世論一般の見方もそうだった。
 そうなると自民党を伝統的に支持してきた各種団体も従来のように自民党を支援してくれなかった。自民党の支持団体の多くは、政権与党である自民党の利用価値を忖度するのであり、総選挙で野党になる可能性のある自民党を従来どおりには支援してくれなかったのである。
  都市部などでは、新進党に参加した旧政党の得票を合計すると自民党が前回の選挙で獲得した得票の3倍から4倍もあるというがほとんどだった。このような情勢の中で自民党は戦わざるを得なかったのである。
 自民党のひとつの看板は、村山首相の後を受けて平成8年1月首相となった橋本龍太郎氏であった。橋本氏は平成7年10月に自民党総裁になっていた。もうひとつの有効打が、政教分離を訴えることであった。創価学会や公明党に対して、国民は不信感と猜疑心をもっていた。新進党と創価学会の関係を批判することは、ボディ・ブローとして着実に浸透していった。
 この活動の先頭に立ってくれたのが、宗教団体であった。宗教団体はわざわざビラを作成したり、内藤氏のビラを購入したりして配布したのである。ビラ配りといっても選挙戦が近くなると、創価学会員に取り囲まれるという激しい活動であった。
 総選挙では200以上の小選挙区で、自民党と新進党は文字通り激突した。激戦区では、自民党の候補者が街頭演説をはじめると創価学会・公明党の支持者がこれを取り囲んで街宣車を叩いたり、罵声を浴びせるなどした。まさに壮絶なバトルであった。

公明党との連立を図った小渕首相

私は単に総務局長という立場だけでなく、党の中枢でこの新進党との戦いの指揮をとった。広報や組織などの担当者はいたが、最初の小選挙区制の選挙であったので皆各自の選挙に精力を割かざるを得なかった。私は比例区から立候補することになっていたので、選挙での当落の心配はなかった。
 結果として広報や組織の仕事も「白川、頼むぞ」と頼まれて、私がやらなければならなくなったのである。また党を預かる加藤紘一幹事長は、私を全面的に信頼し仕事をやらしてもらえたので、私はもてる力のすべてを傾注することができた。私はここで政権をとるという総選挙のすべてを指揮するという大変だが貴重な経験をすることができた。
 平成8年10月20日に行われた総選挙で、自民党は239議席を獲得した。一方、新進党は156議席であった。自民党は、少なくとも新進党との戦いには完勝したのである。私はこの選挙の功績が認められたのか、自治大臣・国家公安委員長に任命された。
 平成10年夏の参議院選挙で自民党は予期せぬ大敗北を喫し、橋本首相・加藤幹事長が引責辞任をし、平成10年7月小渕恵三氏が首相となった。その小渕首相が公明党との連立を最初に口にしたのは、平成11年の夏ころであった。
 公明党との連立は翌年の9月に行われた総裁選挙でも争点になった。小渕首相に対抗して立候補した加藤紘一氏と山崎拓氏は公明党との連立に反対したが、小渕首相が再選された。平成11年10月5日自民党・自由党・公明党の連立内閣が発足した。自自公連立内閣と呼ばれた。あの新進党との激しいバトルを展開した総選挙から3年も経っていなかった。いうまでもなく自由党も公明党も、先の総選挙で新進党の中核的メンバーによって組織された政党である。

 私が「自公合体政権」と名づけた理由

小渕首相が公明党との連立をいい出したとき、自民党はこれにはかなり反対すると私は思っていた。だが自民党の中で公明党との連立に反対する者は意外にも少なかった。もちろん強く反対する者もいたが、大勢にはならなかった。私は失望した。
 その理由のひとつは、対抗馬として加藤・山崎氏が立候補したものの、小渕氏の再選はほぼ確実視されていたし、現にそうなった。自民党の国会議員というのは、大勢順応派が多いのである。もうひとつは、創価学会を中心に据えた新進党と戦った平成8年の総選挙が、自民党にとってあまりにも厳しかったからだと思う。公明党と連立を組めば創価学会と正面から戦う必要はなくなる、と自民党の多くの国会議員は考えたのだろう。
 このことは理解できない訳ではないが、それではあまりにもご都合主義ではないかと私は思った。また保守政党としての矜持や生き方を放擲するものではないかとも考えた。この当時、自民党を支援してきた宗教団体は公明党との連立に反対して行動を起こしたが、多くの自民党国会議員はこれを無視した。信義を貫くといつもいっていることに悖るのではないかと私は思ったが、そんなことに耳を貸す議員は少なかった。
 普段は偉そうなことをいっている自民党国会議員の多くはこんなものなのである。公明党との連立成立後も、私は数少ない同志と共に「政教分離を貫く会」を作り反対していったが、私が平成12年6月の総選挙で落選したためにその後どうなったかのか知らない。いまでは、公明党との連立に反対したり、これを批判することは、自民党ではタブーである。このタブーに触れると私のように創価学会から徹底的に攻撃されることになる。
 自自公連立は、自公保連立を経て自公連立となり現在に至っている。この自公連立政権を私がなぜ「自公合体政権」と命名したのか、それは他の連立政権との違いを検証しながら次号で述べる。           (5月号に続く)

それでは、また明日。

  • 07年03月25日 12時05分AM 掲載
  • 分類: 2.国内政治

白川勝彦OFFICE   白川勝彦へメール送信 ]

Valid XHTML 1.0 TransitionalValid CSS!Level A conformance icon, W3C-WAI Web Content Accessibility Guidelines 1.0

Copyright©K.Shirakawa Office 1999-2016 - Web pages Created by DIGIHOUND L.L.C. All Rights Reserved ©1999-2016
Powered by Nucleus CMS. Page designed by James Koster.Ported to Nucleus by Joel Pan. Re-design and adjusted by DIGIHOUND L.L.C. © 2006-2016