ゼロと無
09年12月16日
No.1369
難航していた普天間基地移設問題について、鳩山内閣は「移転先を現時点では決めない」という決定をした。暫くの間、この決定を巡って様々な論議が行われるであろう。自公“合体”政権はこれまで「普天間基地を辺野古に移設する」という方針であった。鳩山内閣は「普天間基地を辺野古に移設するかどうかは、現時点では決めない」という選択をしたのである。この違いは、一体どこにあるのだろうか。
自公“合体”政権は「普天間基地を辺野古に移設する」としていたが、実際には辺野古に移設することはできなかったのである。どうしてできなかったのかは、この事情に詳しい論者に譲る。辺野古に移設することを含めて、普天間基地をどこに移設するかは今後慎重に考えることにして、現時点では決めない」としたのである。辺野古に移設すべきと考える人にとっては、今回の決定は決断をしなかったということになる。当然のことながら激しく非難する。それはそれで良いが、なぜこれまで辺野古に代替基地を作れなかったのかを検証する必要があるだろう。
「Aという選択をする」と「Aという選択をしない」は、明らかに違う。しかし、「Aという選択を当面はしない」と、「Aという選択をしない」は必ずしも違うとは言い切れない。Aという選択肢が排除されていない限り、時間的差異はあるものの「Aという選択をする」可能性があるからである。「Aという選択を現時点ではしない」ということは、ひとつの立派な決定なのである。
日本人は、問題を二者択一と考えるのが好きである。そして一刀両断スパッと決断することを格好良いと考えがちである。精々幅広に考える場合でも、三者択一くらいである。しかし、世の中には二者択一で決断できない問題もある。二者択一で決断してはならない問題もある。人生にも同じような問題がある。私などは重要な問題の場合、敢えて選択をしなかった。私は、「どのような職業を選ぶか、どのような人生の伴侶を選ぶか、仕事の上で岐路に直面した場合どのような道を選ぶか」の三つが人生における最重要な問題と考え、あえて選択をしなかったことがある。
苦しいし辛(つら)いが、敢えて選択を拒否するということは、実は重要な選択なのだ。選択をしないからといって、苦しい現実は厳然とある。そして、現実が本当に正しい結論に達することを可能にすることがある。現実がある限り、ある選択をしないことは、決して“無”ではないのである。ゼロと無は、明らかに違うのだ。ゼロは、プラスとマイナスを決然と峻別するメルクマールである。今回の鳩山内閣の決断は、ゼロの選択なのだ。私は、これで良いと思っている。
それでは、また。