政治主導とは…。
09年11月27日
No.1354
私は長期政権党であった自民党の衆議院議員であった。 同じ国会議員でも衆議院議員は、“代議士”と呼ばれる。代議士。私はこの言葉が好きであった。大臣や政務次官に何度かなったが、“大臣”“政務次官”などと呼ばれてもあまりピンとこなかった。「大臣だろうが、政務次官であろうが、私はなによりもまず代議士なのだ」という意識が強かった。
ところが大臣、政務次官と呼ばれることが大好きな代議士もいた。それまではヨボヨボとしていた年配の代議士が、大臣になりSPがつくと急にシャンとするのである。しかし、1年もしてその任を解かれると、またヨボヨボのお年寄りに戻ってしまうのである(笑)。役人が大臣を大臣と呼ぶのは、職階上のものである。でもそうでない人は大臣だろうが政務次官であろうが“白川さん”で良いと私は思っていた。同じ代議士から“大臣”と呼ばれるとなぜか気味さえ悪かった。極めて大臣志向が強い代議士なのだろう。
大臣・政務次官というのは官職である。政務次官に特に権限はなかったが、組織内ではそれなりの立場であった。だからその発言は組織内ではそれなりの意味があった。 現在の“副大臣”や“政務官”にどのような権限があるのか私は知らないが、大臣と同じではないだろう。大臣は所管事項について権限をもっているから、ある問題に最終的な決着をつけることができる。もっともその権限を行使して政治問題に決着を付ける大臣はあまりいなかったが…。
代議士の力の源泉は、政治力だったのである。代議士の直接的権限は、法律に対する賛否の権限だけである。それも衆議院の定数分の1に過ぎないのだ。かつては511分の1であった。現在は480分の1である。従って多数派工作ができなければ代議士など大した力はないのだ。多数派工作ができる代議士でなければ、そんな代議士は無視されてしまうのである。代議士の力の源泉は、あくまでも“政治力”なのである。政治力は誰かから与えられるものではない。自ら努力して築き上げるしかないのだ。
多数派工作の力の基本は、説得力である。かつての自民党代議士の選挙事情は非常に厳しかった。自民党同士の足の引っ張り合いもあった。それは選挙でも同じであった。自民党支持者の票も奪い合うのである。自民党支持者の圧倒的多数は“一般庶民”であった。近ごろ流行の言い方をすれば、“庶民目線”の言動をしなければその支持を得ることはできなかった。庶民性のない自民党代議士は、当選し続けることさえ困難だったのである。野党特に社会党などは組織があったので、かえって庶民性など求められない傾向さえあった。
閑話休題。民主党の政治家も、大臣・副大臣・政務官という官職が好きなようである。政治主導・政治判断という言葉が好きである。よく“政務三役会議”という言葉が出てくる。何のことはない。大臣の権限を背景にしているに過ぎない。しかし、政治決着とは“百花斉放 百家争鳴”しても意見が集約できないときにはじめて行うものなのである。その決断をする政治家は、それこそ命懸けの決定を下すのである。
事業仕分けの結果を受けて、大臣や副大臣や政務官がもう巻き返しを図っている。その言い分は、もう官僚サイドに立っているようだ。“百花斉放 百家争鳴”の結論に対抗するものは、あくまでも政治的発言でなければならない。政治的説得力である。それが政治主導というものであろう。政治家が権限を振り回すとき、政治は堕落する。
「政治的論争とは、お互いに検証可能な言葉と事実と論理で行わなければならない」ものなのだ。そのようにして導き出された結論が正しい政治主導というものであろう。大臣の権限の行使は、最後の最後まで厳に慎まなければならないのだ。
今日はこのくらいにしておこう。それでは、また。