政治的論争の特徴
09年11月21日
No.1349
今週も今日で終わりだ。振り返ると1週間もけっこう長い。今週は4夜続けて会合があった。どれも意味のある有意義な会合であった。どの会も夜の10時頃まであったので、自宅に帰るとちょっとテレビを見るくらいで寝てしまう。
そうすると、永田町徒然草を書くのは朝起きてからだ。こういう場合、テーマはまだ決まっていない。前日のニュース報道を見ている場合もあれば、ほとんど見ていないときもある。出かけなければならない時刻から起きた時刻を差し引いて、その日の永田町徒然草のテーマと長さが決まってくる。
永田町徒然草を書く時間が多くとれない場合は、どうしても短いものになってしまう。そして、分類は“徒然”となることが多い(笑)。短いから、“徒然”だからといって、テーマが軽いとは限らない。普段よりも意味深なことを書いている場合もあるのだが…。なぜかというと、政治的論評はそれなりの長さがどうしても必要なのだ。これが、政治的議論の宿命である。政治的論争は、お互いに検証可能な言葉と事実と論理で行わなければならないのだ。こちらは、政治的論争の特徴である。
これに対して宗教・信仰についての論争は、いささか事情が異なる。信仰の確信を他の人に説明・論証する必要はないからである。信仰の確信は、政治的確信よりも強い場合の方が多い。このことは、政教分離が必要とされる理由のひとつとして挙げられている。
政治的論争においても、特定の政治家や政党について感情的な好き嫌いはある。時にはそれが主たる原因だという場合さえある。しかし、“好き嫌い”という次元で論争を始めたら、それは政治的議論にならないのだ。
だから、政治的問題を永田町徒然草で取り上げる場合には、どうしてもそれなりの長さにならざるを得ないのである。それなりの長さの物を書く場合には、どうしてもそれなりの時間が必要という単純な理由だ。政治的問題は難しいから、永田町徒然草が長くなるのではない。政治的論争をする場合には、相手方が検証あるいは反論できるように発言することが必要だからである。私にとっては、政治的問題について論評する方がはるかに楽である。しかし、そのためには最低限の時間が必要なのだ。私にとって自明なことでも、一応はどうしても書かなければならないことがあるからだ。
今日の永田町徒然草を書き始めてから、ちょうど1時間10分が経った。もう出かけなければならない時刻となった。
ところで今日の分類は何にすべきなのだろうか。これはやはり“国内政治”とすべきなのだろう。決して“徒然”ではないと思うのだが…。
政治的なワイドショーの議論は、“好き嫌い”の次元の論調が相かわらず多い。そのような論争では、問題の核心に迫れないのである。
それでは、また。