本格的な闘いとは…
09年08月07日
No.1250
8月になっても東京には“本格的な夏”がなかなか来ない。蝉の声も湿りがちである。沖縄地方を除いて、ほとんどの地方が梅雨の続きのような夏である。本格的な夏が早く来てくれないと夏のない一年となってしまう。農業をはじめとして現にいろんなところで既に悪影響が出ている。
いま真夏の熱い闘いが全国の各小選挙区で行われている、とマスコミはいう。その闘いのレポート的な報道もある。苦しい情勢の中で闘っている自民党の候補者、勢いにのる民主党の候補者が映し出される。立候補している他の候補者も紹介される。報道は“熱い闘い”と強調するが、長年にわたり選挙戦を闘い抜き、また数多くの選挙を見てきた私にはどうもそんな感じがしないのである。
選挙に立候補するものが当選したいと必死に願うのは、昔も今も同じである。そんなことは特に強調さるべきことではない。私が見たいのは何を争って必死に闘っているかということなのだ。政権交代を訴える候補者は、「自公“合体”政権をなぜ打倒しなければならないのか」を必死に訴えなければならない。これを迎えうつ自公“合体”政権側の候補者は、自らが行ってきた政策とこれからの展望を示さなければならない。そのような論戦が300の小選挙で本格的に繰り広げられているのだろうか。
今回の総選挙は、国民にとって生きるか死ぬかの戦いである。わが国や国民生活は本当にギリギリのところまで追い詰められているのだ。こういう事態を招いてしまった自公“合体”政権側の候補者が追い詰めれるのは当然であろう。いくら泣き喚いても国民は耳を貸さないであろう。政権交代を訴える側の候補者は、まず自公“合体”政権の非を激しく糾弾しなければならない。政権の非を厳しく糾弾することが、自分たちが政権に就いたときその責任の重さを痛感するに通ずるのだ。
週刊誌などには選挙の予想が載っている。どれをみても民主党の勝利を強調するものばかりだ。それはそれでよい。週刊誌などがいくら民主党優勢と書き立てても、それによって雪崩現象が起きる訳ではないのだ。300の小選挙区における民主党などの候補者の必死の闘いが地滑りな勝利を齎すのだ。残念ながら私は300小選挙区全体の情報を掌握する立場にない。伝手のある選挙区については必死に情報を集めているところだが、そんなに楽観できる情勢ではないようである。民主党などの候補者の活動量が十分でないのだ。週刊誌の予想などをみて、浮かれている場合じゃないのだ。
それでは、また。