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「自自公連立内閣は、憲法20条に違反する。」


 この小論は、1999年8月8日、テレビ朝日「サンデープロジェクト」で自公連立は憲法に違反すると発言したところ、問い合せ(もちろん、いやがらせは、その倍もありました)が殺到したため、取り急ぎ書き下ろし、小冊子にして国会内外に配布したものです。私の基本的見解は、ここで、すべてふれております。


目次

1 なぜ、いま、政教分離を問うのか

2 政教分離の原則とは

3 なぜ、政教は分離されたのか

4 政治上の権力の行使とは

5 宗教団体の政治活動の限界

6 自公連立内閣の違憲性

7 民主主義を守るために必要な政教分離

8 政教分離をしないと宗教が堕落する


なぜ、いま、政教分離を問うのか

  昭和45年の藤原弘達氏の著書「創価学会を斬る」をめぐる言論妨害事件以来、公明党と創価学会との関係が何度も国会で問題にされました。その都度、創価学会は、政教分離すると言ってきました。しかし、多くの国民は、これに疑問を持ってきました。

  平成5年8月10日、細川連立政権が誕生し、公明党・創価学会は、念願の政権参加を果たしました。

 この前後の創価学会の最高実力者―池田名誉会長のはしゃぎようはたいへんなものでした。池田大作氏は、平成五年八月八日、創価学会の長野研修道場で行なわれた本部幹部会において、次のように発言しました。「皆さん方も頑張ってくれた。すごい時代に入りましたね。そのうちデエジンも何人か出るでしょう、ね。ね。もうじきです。ま、明日あたり出るから。あの、みんな、あの、皆さん方の部下だから。そのつもりで。」

 この発言は、多くの人々のひんしゅくを買うと同時に大きな不安を与えました。これを契機に、政教分離の問題について国民的議論が巻き起こりました。国会でも、多くの国会議員がこの問題をとりあげ、公明党と創価学会の関係は憲法上疑いがあると政府を追及しました。

 そして、平成11年6月21日、小渕恵三内閣総理大臣は、公明党との連立内閣をつくりたいと表明しました。

 これを受けて公明党は7月24日、党大会において連立内閣をつくることに合意することを決定しました。このことにより、自公連立内閣が誕生する可能性が極めて高くなり、長い間政教分離問題に関心を持ってきた人々から強い危惧と反対の声が発せられました。また、国民の間に強い疑念が持たれています。本小論は、憲法20条を中心とする政教分離の原則を明らかにし、自由民主党と公明党が連立内閣をつくることの憲法上の問題をも明らかにしようとするものです。

政教分離の原則とは

 なぜ、政教は分離されなければならないのでしょうか。なぜ、公明党と創価学会の関係が問題にされるのでしょうか。それは、信教の自由を保障するため、憲法が政教の分離を定めているからです。

 創価学会という宗教団体の存在それ自体は、①「思想及び良心の自由は、これを侵してはならない」(憲法一九条)②「信教の自由は、何人に対してもこれを保障する。」(憲法二〇条一項前段)③「集会、結社及び言論、出版その他一切の表現の自由は、これを保障する。」(憲法二一条一項)などからみて、当然のことながら憲法上何の問題もありません。

 宗教団体である創価学会が、憲法の範囲内で政治活動をすることも、それ自体何の問題もありません。それは、憲法が基本的人権として保障するところであり、憲法を尊重する私たちが問題にする訳がありません。

 問題は、そこから先です。

宗教団体の政治活動には、憲法上の制約があるのかないのかということを問わなければならないのです。

 憲法は、まず、「信教の自由は、何人に対してもこれを保障する」(憲法二〇条一項前段)と定めています。 これが、信教の自由に関する大原則です。

 本来ならば、この大原則を明らかにするだけで十分なのですが、憲法はさらに五つのことを定めています。

〈 政教分離の原則 〉

【1】「いかなる宗教団体も、国から特権を受けてはならない。」(憲法二〇条一項後段)
【2】「いかなる宗教団体も、政治上の権力を行使してはならない。」(憲法二〇条一項後段)
【3】「何人も、宗教上の行為、祝典、儀式又は行事に参加することを強制されない。」(憲法二〇条二項)
【4】「国及びその機関は、宗教教育その他いかなる宗教的活動もしてはならない。」(憲法二〇条三項)
【5】「公金その他の公の財産は、宗教上の組織若しくは団体の使用、便益若しくは維持のため、これを支出し、又はその利用に供してはならない。」(憲法八九条)

 これが、憲法の定めている政教分離の原則です。

いずれも、公権力と特定の宗教団体との癒着を極めて具体的に禁止しています。【2】を除く他の四つは、権力が特定の宗教または宗教団体と癒着することを、権力の側からとらえて禁止しています。一方、【2】の「いかなる宗教団体も、政治上の権力を行使してはならない」という規定は、特定の宗教団体と権力との癒着を、宗教団体の側からとらえてこれを禁止しています。

なぜ、政教は分離されたのか

 信教の自由を考える場合、内外の歴史を鑑みれば、特定の宗教や宗教団体に対する禁止や弾圧を禁じることが本来最も大切なことです。しかし、このような規定を何も設けずに、政教分離の原則を極めて具体的に設けたのはなぜなのでしょうか。

 かつてのキリシタン弾圧のようなことは、「信教の自由は、何人に対してもこれを保障する」という大原則を明らかにすることによって、必要にして十分に排除できると考えたからです。憲法は、さらに一歩踏み込んで、信教の自由を実質的に保障するために、政教分離の原則を定めたものと解さなければなりません。

 それでは、なぜ、憲法は権力と宗教団体との癒着を禁止したのでしょうか。特定の宗教団体と権力が癒着した場合、その宗教団体は他の宗教団体に比べ、優越的な地位を得ます。優越的地位を得た宗教団体は、宗教活動や布教活動において有利な立場にたつことになり、その結果、他の宗教団体の宗教活動や無宗教の人々の自由が侵されることになります。このことは、歴史の教訓として明らかなことです。

 憲法は、信教の自由の保障に万全を期すため、特定の宗教や宗教団体への禁止や弾圧を排除することはもちろんでありますが、権力と特定の宗教や宗教団体が癒着することを禁止したのです。憲法は、法律上や予算上の癒着はもちろん、事実上の癒着もこれを禁止していると解すべきです。要するに、特定の宗教や宗教団体が、優越的な地位に立つことを禁じたのが政教分離の原則なのです。

政治上の権力の行使とは…

「いかなる宗教団体も、政治上の権力を行使してはならない」とは、具体的には、どのようなことを禁止しているのでしようか。

 国家権力は、立法権・行政権・司法権に分けられます。中世のヨーロッパの教会が行なっていたように、現在の日本において、ある宗教団体がそのままの形で立法権や行政権を行使することは憲法上明白に禁止されていることであり、およそ考えられません。憲法は、権力が特定の宗教や宗教団体と結びつくことを具体的に禁止しているので、仮にある宗教団体が権力を簒奪しても憲法上何もできないのだから、この規定は意味のない規定であるという学説さえあります。

 しかし、憲法を尊重する立場からは、このような解釈はとうてい採りえません。現在の日本において、ある宗教団体がそのままの形で立法権や行政権を行使することは、クーデタでも起こさない限りできません。仮に、そのようなクーデタが成功したとしても、憲法上は絶対に認められません。

 しかし、ある宗教団体が実質的に支配する政党が、立法権を行使することはできます。また、議院内閣制のもとでは、議会の多数派は、内閣総理大臣を指名することができ、行政権を事実上支配できます。その多数派の政党が、事実上ある宗教団体に支配されていた場合、憲法上、何の問題もないといえるのでしようか。

 「いかなる宗教団体も、政治上の権力を行使してはならない」とは、まさに、このような状態を想定し、これを禁止したものと私は考えます。現に、このような学説もあります。

宗教団体の政治活動の限界

 いかなる宗教団体も、ひとつの結社として政治活動をすることは、憲法で保障されています。しかし、一方、いかなる宗教団体も、政治上の権力を行使することを憲法は禁止しています。問題は、宗教団体の政治活動の憲法上の制約もしくは限界は何かということです。私は、ある宗教団体が実質的に支配する政党 (以下、宗教政党といいます) を組織し、国政選挙に候補者をたてて選挙に臨むことは憲法上禁止されていると考えます。

 なぜでしょうか。それは、いかなる政党も、国政選挙に出る以上は、権力獲得を目指すからです。宗教団体が直接であれ、間接であれ、権力を獲得しようという行為こそ、まさに憲法が禁止していることなのです。その宗教政党から何人当選者がでたということは本来関係ありません。ある宗教政党が、政権を単独で獲得するためには、衆議院で過半数以上をとらなければなりません。しかし、連立政権の場合ならば、何も過半数をとる必要はありません。この場合でも、その宗教政党は、国家権力に大きな影響力を行使できます。宗教団体は、宗教政党を介在させることにより、国家権力を直接掌握することもできれば、国家権力に対し大きな影響力を行使することもできます。

 憲法は、宗教団体がこのようにして政治上の権力を事実上支配することを禁止しているのです。ある宗教団体が、国家権力を事実上支配した場合、その宗教団体は優越的な地位を得ます。法律上であれ、事実上であれ、特定の宗教団体がこのような優越的な地位を得ることを防止するために、憲法は政教分離を定めたのです。

自公連立内閣の違憲性

 公明党が創価学会に実質的に支配されている政党であることは、国民衆知の事実です。その証拠は山ほどあります。何よりも創価学会の会員は公明党が創価学会党であることを身をもって知っている筈ですし、ほとんどの人が生き証人です。

 ちなみに、池田名誉会長の口ぐせは「天下を取る!」だそうです。このことに象徴されるように、政教を分離する気など、公明党=創価学会には最初から念頭にないのです。政教分離をことさらに口にするのは、憲法が政教一致を禁止しているからであり、世を欺くための方便にすぎません。

 以上を要約すれば、公明党は、政教分離を定めた憲法に違反する政党です。政教分離の原則に反する政党と自由民主党が、連立内閣をつくるということは、自由民主党がその意思により政教分離を踏みにじることになり、国民から強い反対を受けることは必至です。

民主主義を守るために必要な政教分離

 ちなみに、政教分離は、信教の自由を守るために絶対に必要なことはもちろんですが、民主主義を守るためにも必要なのです。わが国の憲法の政教分離の原則は、アメリカ憲法の強い影響を受けて定められたものですが、アメリカの判例法理においてこのことが強調されています。

 政治的意見の相違は、民主政治の建前に即していえば、何が公共の福祉であるかについての意見の対立です。異なる意見といっても、それは、互いに事実をつきつけ、理性に適った議論をつみ重ねることにより、正しい結論に達することが可能ですし、また、妥協も可能です。最後まで意見が対立した場合、多数決によって決することが許される問題です。

 しかし、宗教的信条は、人の内面的確信のみに根拠づけられるものです。宗教的信条はその真否を世俗権力の前において証明する責務を負う必要がありません。言いかえれば、宗教の自由は、証明できないことを信ずる自由なのです。魂の救済に関する宗教的信条は、絶対的に自由であり、また自由であるべきものですが、それは内面的確信ですから、独自固有にして排他的・非妥協的という必然性を持っています。

 政治的な意見の対立に、宗教的な対立が持ち込まれ、これがからみ合うと、その政治的意見の対立は強烈なものとなり、調整の余地のない固定的な対立となり、民主主義が破壊されるという理論です。興味深い理論です。

 具体例をあげます。平成八年の総選挙で自由民主党は、新進党は創価学会党であるという大々的なキャンペーンをはりました。このため、創価学会を宗教的理由によって支持しない、また、嫌悪する人は、新進党の理念や政策を他の政党のそれと比べて支持しないのではなく、創価学会党であることを理由に支持しなかった人が相当ありました。これは、新進党にとって不幸だったというだけではなく、日本の民主主義にとって不幸なことだったと思います。

 しかし、信仰という人間の魂にとって極めて大切な問題である以上、このようなことは避けられないのです。このような事態が起きないように、民主主義を守るためにも、政教の分離がなされなければならないのです。

政教分離をしないと宗教が堕落する

  また、政教を分離しないと、宗教そのものが堕落する。これも、アメリカの判例法理のひとつです。

 「本来、礼拝は神に対する愛から捧げられ、入信を誘う布教伝道は、『光と明証』にもとづく説得により行なわれるべきであるが、これらの宗教的営為の背景に世俗政治権力の威信と権威が控える時、一方において、人民の『信じるか、信じないかの全き自由』が奪われるとともに、他方において、宗教の側においては、ただ神に対する愛のみによって人を礼拝に導き、ただ光と明証のみによって入信させる熱意と、それどころか、その力量そのものが次第に失われて行くことになるのである。」

 これも、具体例をあげて考えてみましょう。公明党は、地方議会に多数の議員を持ち、地方自治体に大きな影響力を持っています。これらの地方議員は、地方自治体の公共事業の請負や参入に便宜をはかっています。また、公営住宅への入居や生活保護認定などのために特に精力的に活動しています。

 このような活動そのものは、これに関して対価を受け取ることをしなければ違法とはいえません。また、このような活動を利用して創価学会に入信させたからといって、金品を受け取った訳ではありませんから、収賄罪に問われることもありません。しかし、このような世俗的利益を武器として信者を獲得することは、宗教的努力による布教活動ではありません。宗教的努力によらない布教活動は、長い目でみると、必ずその宗教を堕落させることになります。

 公明党と創価学会の関係については、政教分離の観点から多くの国民が長い間疑問視し、強い批判をしてきました。このような批判がある場合、普通の健全な感覚を持った宗教団体ならば、そのような問題視される活動を自重するでしょう。しかし、創価学会は、このような疑問や批判に一切耳を傾けることをせず、口では政教分離をしているといいながら、その活動をますます強めてきました。創価学会の会員にとって、政治活動と選挙運動は宗教活動そのものだといわれています。創価学会は、公明党という世俗上の武器を持たなければ宗教団体としてやってゆくことができない、寂しい悲しい宗教団体だと指摘する人もいます。

 宗教の健全な発展のためにも、政教分離されなければならないということを、宗教界はもちろん国民全体で考えてゆかなければなりません。

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